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帰郷 39
「お母さんが謝ることなんて何もないのに……馴染めなかったのは僕のせいなのに」
「馬鹿ね。瑞樹は本当に馬鹿な子なんだから……もう、ほらっおいで」
お母さんがグイっと僕を抱きしめてくれた。こんな歳になって、こんなことをされるなんて思わなくて動揺してしまった。
「お……お母さん? 」
「瑞樹は私がお腹を痛めて産んでいないけど、ちゃんと私の子なのよ。10歳の時からずーっとあなたは私の息子なの。日々の生活に追われて、甘える隙も暇もゆっくり与えてあげられなくてごめんね」
「……そんな」
「だから入院中はせめて甘えて。あなたが大沼で両親と幸せに過ごしていた頃に戻ってもいいのよ」
幸せの絶頂で強制終了してしまった僕の子供時代。でも僕は決して不幸なわけではなかった。何故ならこんなにまで心配して駆けつけてくれる新しい家族がいるのだから。
「昔……事故の悪夢を見る度に、お母さんが根気よく付き合ってくれたのを覚えている。無理矢理、学校に行かすこともなく、暫く花屋の店番をさせてくれたのが嬉しかったよ。僕はあれがきっかけで花が好きになって職業にしたいと思ったんだ」
気がつくと、いつもより甘えた話し方になっていた。なんだか照れくさい。
「そうね、そうだったわね。瑞樹は花の名前を一生懸命ノートに取っていたわ」
「うん」
一つ一つの花の名前、産地、扱い方。お母さんは働きながら僕に根気よく教えてくれた。それは広樹兄さんも同じだった。本当は寂しい想いなんてしたことなかった。運動会も授業参観も三者面談も、お母さんが無理でも広樹兄さんが来てくれた。潤と上手くできなかったのは、もしかしたら僕が潤になりたかったせいなのかもと思うと腑に落ちた。
「僕は愛してもらっていたんだ……ちゃんと、しっかり」
「そう言ってくれるの? 」
「お母さんは……僕のもう一人のお母さんです」
「ありがとう。瑞樹……」
亡くなった母を忘れられないけれども、今ここに、もう一人の母がいることも忘れたくない。
当たり前じゃない。
双方の努力があって、今ここにいる。
****
「あなたたち軽井沢は初めて? 」
「まぁろくに函館から出たことありませんからね」
「じゃあ一つ位この町の観光をしていかない? 」
「でも病院に戻らないと、飛行機の時間もあるし」
「大丈夫。すぐ近くなのよ」
瑞樹の危機をいち早く見抜いて通報してくれた松本さんという女性の車に乗って、瑞樹の入院に必要なものを買いそろえた帰り道に観光に誘われた。
「あの、どこへ? 」
「あなたは函館のお花屋さんなんでしょう? 」
「そうですが」
「近くに私の友人が運営しているイングリッシュガーデンという観光施設があるの。そこに寄ってみたい?」
案内されたのは『軽井沢ローズ・イングリッシュガーデン』
マナーハウスが見事にガーデンと一体化したイングランド風の庭園だった。
建物の周りには光と風の開放的な空間と影がもたらす落ち着いた世界が広がり、いつの間にか自然にイングリッシュガーデンに導かれる仕掛けだ。今はシーズンオフだが、オンシーズンにはここに何種類もの薔薇が咲き乱れるのだろう。
来シーズンのために、庭の手入れをしている何人かの庭師とすれ違った。皆、泥まみれだが生き生きとした表情だ。未来のために働いているからなのか。
「へぇ花市場でもなく、生産農家でもない場所か。こんな風に庭を整備する仕事もいいな」
隣に立っていた潤が、その光景を見てしみじみと呟いた。
「俺はさ、地面から生えたままがいいんだ。だから切り花を扱う花屋の手伝いはしなかったけどさ、庭を造るっていいな」
潤の眼は今までにない程、輝いていた。まるでやっとやりたいことを見つけたかのように。
「兄さん……函館は狭い街だ。あの若社長が幅をきかせていた建設業には、正直オレはもう関わりたくない。たとえ瑞樹が許しても俺が嫌だ。もともとしっくりしていなかった。今からでも遅くないかな。オレ……造園のことを真剣に学んでみたいよ」
俺たちの会話を聞いていた松本さんが思いもよらない提案をしてくれた。
「あら本当? なかなか庭師のなり手がいないと友人が嘆いていたわ。いつも求人募集しても集まらないのよ。もしあなたが本気なら、ここにいらっしゃいよ。この庭園で働きながら一から学べるのよ」
「ほっ本当ですか」
どうやら瑞樹の紡いでくれた縁のおかげで、一つ新しい道が増えたそうだ。
「俺は切った花を売る。瑞樹はその花を生き生きと活かす。そして……潤は庭を造るか。それもいいもんだな。花に関わる仕事といっても、三者三様だ。瑞樹に話したらきっと喜ぶぞ。お前が花や植物に関わる仕事に就きたいなんてさ」
「そっそうかな。瑞樹、喜ぶかな」
潤は鼻の頭を赤くして笑っていた。
「じゃあ挨拶だけしておきましょ!」
松本さんは積極的な女性だ。流石、観光会社の女社長だけあるな。こういうしっかりした人が所で潤が学ぶのは悪くない。
****
病院の長い廊下を、大荷物を抱えて弟と二人で歩いた。すると瑞樹の病室の前に、一人の若い青年が立っていた。
「兄貴、あれ誰かな?」
立ち姿も横顔もとんでもなく美しい、それ以外の言葉が出てこない男性だった。だがすぐに俺には分かった。彼は瑞樹の友人だ。綺麗で可愛い弟と気が合いそうな人だと直感で思った。
「あの、もしかして瑞樹の友達ですか」
「あっ……はい。あっ瑞樹くんのお兄さんと弟さんですか」
「そうだが」
「はじめまして」
青年が優しく微笑むと百合のように気高く美しかったので、俺と弟は思わず一歩退いてしまう程だった。
「洋くん! 来てくれたの? 」
後ろから松本さんの嬉しそうな声が響いた。
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