269 / 1643

若葉風にそよぐ 3

「……」  本当は芽生の泣き声で目が覚めていた。だが瑞樹と芽生の会話に、俺はどう反応していいのか分からなくて、寝たふりをしてしまった。 「……宗吾さん、なかなか起きないね。芽生くん、今日は僕とお風呂に入ろうか」 「うん、おにいちゃん……ごめんね」 「あやまることじゃないよ。優しい芽生くんが大好きだよ」 「ボクもおにいちゃんがだいすき!」  二人が仲良さそうに風呂場に消えたので、そっと起き上がった。  くそっ――  自分自身に対して何とも言えない怒りの感情がこみ上げてきて、握り拳をギュッと毛足の長いラグに押しつけた。  こんなの俺らしくない――宗吾らしくないぞ。  そう思うのに、いつものように堂々としていられない。    芽生の悩みの本質を知って、完全に自己嫌悪に陥っていた。    小さな芽生なりに、瑞樹にも母親にも気を遣っていたのだ。それでひとり悩んでいたのか。  俺は何も気づかず……本当に父親失格だな。  芽生が幼稚園の年少の頃……完全に大人の都合で俺と玲子は離婚することになった。  俺がバイだということを隠し結婚したこと、芽生が産まれてからも仕事を言い訳に、ふらふらと遊び歩いて、育児も家事も全部、玲子に押しつけてしまったこと。  とにかくいろんな事情が重なって、ある日突然、妻から離婚を切り出された。  別れ際、それまでの鬱憤を晴らすかの如く咎められ、侮辱の言葉をまき散らし……芽生を置いて玲子は去って行った。  今思い出しても、あれはお互いに醜く酷い別れだった。   瑞樹のお陰で、昨年、玲子とはある程度和解したが、積極的に会う気持ちにはなれなかった。でも芽生にとってはずっと大切な母親なんだよな。そこが俺には抜け落ちていたのだ。  芽生が母親を思慕する気持ちと、俺が玲子に対して抱く気持ちがズレていて、父親としてすべきことに感情が追いついていなかった。  それにしても今、瑞樹が傍にいてくれなかったら、俺だけでは幼い芽生の繊細な揺れ動く感情になかなか気づけず、知ったとしてもうまく支えられなかったと思う。  何だか今日は決まり悪くて恥ずかしくて……瑞樹と顔を合わせるのも気まずくて、自分の寝室に籠もってしまった。  学生時代も社会人になっても……いつも俺は輪の中心にいた。クラスのリーダー的存在……若さもあり奢っていた頃もある。  恥ずかしことだが、自分の気持ちをグイグイ押し通すことも多かった。  離婚を経て少しはまともな人間になったかと思ったが……瑞樹を愛し少しは人の気持ちを推し量れる人間になったかと奢っていた。  瑞樹も芽生も、たまたま俺に付いてきてくれたから疑問に思わなかったが……  俺は、酷い人間だ。  あーもう今日はダメだな。  いつになく弱気。いつになくマイナス思考。  もう考えがぐちゃぐちゃだ。  明日から函館に行くというのに、こんなことじゃダメだ。早く立て直したいが、すぐに感情コントロールが出来ないな。  二人が戻ってくる前に寝てしまおうと、布団を頭まで被った。 **** 「おやすみ、芽生くん」  芽生くんは泣き疲れたのもあり、お風呂からあがるとすぐに子供部屋ですやすやと眠ってしまった。しばらくその様子を眺めていたが、宗吾さんのことが気になったのでリビングに戻ってみた。  ところが宗吾さんの姿は、もう見えなかった。 「宗吾さん? どこへ」  ソファで眠っていたのに。一度起きたのなら、どうして声をかけてくれなかったのかな。    トントン―  宗吾さんの寝室をノックするが返事がない。  もう寝てしまったのか。引き返そうと思ったが何となく気になったので、中に入ってみると、宗吾さんはもう眠っていた。 「宗吾さん……?」  寝顔をそっと覗き込むと、いつになく難しい表情を浮かべていたのでハッとした。  宗吾さんもこんな表情もするのか。いつだって自信に満ちて僕を引っ張ってくれる人なのに。  いやそれは違う、人にはいろんな面があって当然だろう。それを表に出さないだけで。  普段垣間見ることのない宗吾さんに初めて出会ったようで、急に愛おしくなってしまった。 「宗吾さん……僕はどんな宗吾さんでも好きです。だから、僕にも、もっといろんな顔を見せてもらいたいです」  宗吾さんからの返事はない。  だからなのか……せめて彼のぬくもりが欲しくなって、僕の方からもぞもぞと布団に潜り込んでしまった。  わぁ……温かい。  宗吾さんの体温で既に温まったぬくもりが優しくて、たまにはこんな夜もいいなと思ってしまった。 「宗吾さん……」  あなたは本当の僕を見つけて、愛してくれる人、愛し続けてくれる人。  そう思うと胸が一杯になって、僕の方から珍しく口づけしたくなった。    眠る宗吾さんの枕元に肘をついて躰を少し起こし、顔をそっと寄せた。  僕からの口付け。  いつも宗吾さんからもらってばかりなので、少し勇気がいるな。  心臓がバクバクしてくる。  僕の唇をそっと宗吾さんの唇に重ねてみた。 「んっ……」  柔らかい感触が気持ち良くて、離れ難い。  時計の針の音がカチコチと機械的にカウントする中、あと少し、もう少しだけと、僕は彼の柔らかな唇を熱心に貪った。  唇と唇……薄い皮膜と薄い皮膜が重なる場所は、とても敏感で繊細だ。  なんだか頬が火照ってきて、このまま溶けてしまいそうになる。  ここから……僕の溢れる気持ちを、宗吾さんに届けたい。  どんな宗吾さんでも大好きだと、もっともっと伝えたくて。  もう一度……もう一度だけと、口づけを繰り返した。

ともだちにシェアしよう!