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さくら色の故郷 14
『お兄ちゃん……ありがとう』
明け方うつらうつらしていると、感謝の言葉が、まるで花びらのように優しくふわりと舞い降りてきた。
声の主は瑞樹……俺が見つけた大事な弟。
小学生の頃は『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と呼んでくれたんだよな、懐かしいよ。
怖い夢にうなされ俺の胸元で泣きじゃくっていたあの小さな少年はもういない。なのに……またこんな風に呼んでくれるなんてスゲぇ嬉しい!
瑞樹は同性から見ても楚々とした綺麗な男子で、中学でも高校でも女の子によくモテていた。だから当たり前のように、いつか可愛い恋人が出来て結婚し、ここを巣立っていくと覚悟していたんだ。
そんな瑞樹の相手が同性だったのには最初は驚いたが、宗吾になら任せられる。
自分の息子と母親を連れて、こうやって真っ先に函館に挨拶に来てくれたことで更に信頼度が上がった。宗吾が瑞樹に対して真剣なのが、ひしひしと伝わってくる。
芽生くんは瑞樹を慕って懐いているし、母親は瑞樹を息子同様に深く受け入れ愛してくれている。
もう何の不満もないのに、昨夜は少しだけ寂しくなってしまった。まるで過ぎ去っていく春を惜しむような気分だった。
惜春か……だが春の次は新緑……つまり瑞樹の季節の到来だ。
兄として、しっかり送り出そう!
いつでも瑞樹が帰って来ることが出来る、あたたかいホームであろう!
あぁ俺も涙脆くなったよな。今、目を開けたらまた泣いてしまいそうで、さっきから寝たふりをしている。
****
明け方目覚めると、背中の向こうに瑞樹の優しい声がした。どうやら眠っている広樹に話しかけているようだ。
『お兄ちゃん……ありがとう』
思いの丈の詰まった切なくも優しい感謝のメッセージ。
その一言で、瑞樹がこの家でどれだけ愛されて育ったのかが伝わってくる。こんなにも大事にされて育った瑞樹を連れて行くのが俺だと思うと、気が引き締まるな。
きっと広樹も俺と同様に……もう起きているのだろう。
だが今起きたら泣いてしまいそうで、黙っているのだろう。
函館に母と芽生と一緒に来て良かった。俺が瑞樹と真剣に歩み出した様子を直に見てもらえて良かった。
広樹の大事な弟をもらうんじゃない。
これは……そんな一方的な恋じゃない。
この先ずっと一緒に暮らして……同じ方向に歩んでいく。
だから見ていてくれ。
ずっとここ函館、瑞樹のホームから見守ってくれよ。
****
『……お兄ちゃん』
「おにいちゃんっ」
僕の声に、幼い声が重なった。
振り返ると、パジャマ姿の芽生くんがニコニコと立っていた。
「おにいちゃん、おはよう!」
「わっ芽生くん、もう起きたの?」
「うん! ワクワクして起きちゃった」
「そうなんだね。偉かったね」
「おにーちゃん、早く来て来て」
「どこへ?」
芽生くんが僕の手をグイグイ引っ張って、階段を下りていく。
「お花さん、みーんなお水をくださいって呼んでいるよ」
「あっそうか」
小さな子供ってすごい……ちゃんと花たちの声が聞こえているんだね。
そうだ!今日は僕が開店の準備をしよう。冬にこの家で療養させてもらった時は気力も余裕もなく、朝の手伝いは出来なかった。だからこそ、今日はしっかり。
「おにいちゃん、お花やさんのじゅんび、するんでしょ」
「そうだよ」
「ボクもおてつだいしたい!」
「ありがとう」
今日は花市場は休みなので、まだ誰も起きてこない。
兄さん……昨日は店を抜けて1日付き合ってくれてありがとう。お母さんはひとりで日中、店番をしてくれてありがとう。僕のために二人が時間を作ってくれて嬉しかった。だから恩返しさせて欲しい。
「なにをするの?」
「えっとね……ここにあるお花に湯あげや水揚げの処理をしたり、ショーケースの中のお花が鮮度よく保てるように湿度や温度、水の確認をしたりするんだ。それからお店の前にお花を並べて、それから予約が入っていたら花束やアレンジメントを作ったりもするよ」
「んー? むずかしいね」
「あっごめん」
小さな子供には難しい言い方をしてしまった。
「とにかくお花さんたちに、キレイに気持ち良くなってもらおうね」
「わぁボク何をしたらいいかな」
「そうだね……このバケツの中のお花の中で少し枯れてしまったのを、取ってもらえるかな」
「赤いカーネーションだ!」
芽生くんが夢中になっている間に、僕は手早くやるべきことをさっと終わらせた。会社でもホテルでも同じような作業をするので、だいぶ手際よくなったかな。汗を拭って芽生くんを見ると少し寂しそうな表情になっていた。
「どうしたの?」
「お兄ちゃん、このお花どうするの? 」
少ししなびてしまったカーネーションを数本、芽生くんが持ってトボトボとやってきた。
「んーもう売り物には出来ないけれども、捨てちゃうの、もったいないね」
「かわいそうだよ」
「じゃあ芽生くんに何か作ってあげよう」
「ほんとう?」
「なにがいい?」
「あのね……『ハナタバ』にして欲しいの」
「花束《ブーケ》か。いいよ」
枯れた部分を除けて整えると、まだまだ元気そうだ。だからスタンディングブーケにしてみた。
「うわぁおにいちゃん、すごいすごい! これ、そのまま立つんだ! お花もシャキンとよろこんでいるね!」
赤いスプレーカーネーションに少しグリーンを足して作った花束は、朝日を浴びてイキイキと輝いていた。もう枯れてしまいそうだったのに、芽生くんの一言で蘇ったね。
「おにいちゃん、お花まだあるね、もっと作ってほしいな」
「うん、いいよ」
僕の育った家で、僕の恋人の大切な息子と過ごすひと時……絵に描いたような幸せな時間をいつまでも満喫したくなる。
するとまだ開店していないのに、店の正面の扉が開き、人影が動いた。
「えっ」
誰だろう? 逆光なので目を細め確認すると……
驚いたことに、そこに立っていたのは弟の潤だった。
「潤っ」
「……兄さん」
ちゃんと帰って来てくれたのか!
間に合ったんだね。
嬉しくて、僕から自然に零れた言葉は……
「お帰り……潤! 」
笑顔を添えて贈る言葉は、弟の帰りを歓迎するものだった。
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