351 / 1738
紫陽花の咲く道 3
「えっ……」
「あっ!」
あまりに驚き過ぎて、言葉がすぐには出てこなかった。
お互いに顔を見合わせ、言葉の代わりに、はらりと涙が零れてしまった。
目を見張る程の美男子で、匂い立つような白百合のような美貌の主は、昨年葉山の海で出逢った洋《よう》くんだった。じゃあ運転手は丈さんだ!
「洋くん……っ」
「瑞樹くんっ」
それ以上の言葉が見つからず、僕らはふわりと抱擁しあった。
「会いたかった」
「連絡しようと思っていた所だったのに、ごめん。なかなか連絡出来なくて」
「いいんだよ、君が幸せなら……」
洋くんも泣いていた。
美しい瞳から零れる涙は、透明な水のように澄んで静かな雨となり、僕の心に優しく染み入って来た。
どうしてだろう。どうして……君がただそこにいるだけで、こんなにも落ち着くのか。
暫く抱擁しあって、頬を濡らした後……洋くんはハッとした面持ちで僕の右手を手に取った。
じっと目を凝らして見つめるのは、あの日の傷だろう。
実はまだ少しだけ痕が残っている。何しろあのガラス片は深かったから。
あの日の包帯だらけの白い手は、自分でも忘れられないよ。でも僕は過去の痛々しい思い出に、もう傷つかなかった。
しあわせというバリアが張り巡らされているから。
「動くの? もう、ちゃんと……」
洋くんの白魚のように美しい手に、僕の傷だらけの手を見られるのは恥ずかしいが、ちゃんと見て欲しかった。
「うん、ほら。もう大丈夫だよ。もう治って仕事もしている」
「良かった……本当に良かった! 便りがないのはきっといい方向に進んでいる最中だからだと、信じて待っていた」
洋くんは安堵のため息をふぅ……っと漏らした。そんなさり気ない仕草にも色香が漏れる美貌の持ち主だ。
彼が昨年の11月に軽井沢に来てくれ日から、少しも変わっていない事にホッとした。同時にこの半年間に本当に色んなことがあったと、しみじみとしてしまう。
「やぁ瑞樹くん……久しぶりだね。君たちもこの店に?」
「あっ……丈《じょう》さん! ご無沙汰しています。お世話になりっ放しで……」
いつの間にか僕たちの横に、洋くんの恋人の丈さんが立っていた。
「とんでもない。元気そうで良かったよ。今は……宗吾さんと芽生くんと幸せに暮らしているようだね」
彼の低い声……穏やかな口調が心地よい。
「えぇ今の僕はとてもしあわせです。4月の終わりから一緒に暮らすようになりました」
こんな風に人前で、自分の事をしあわせだと言えるようになるなんて。
でも……もっともっと伝えたい事がある。
「宗吾さんに……しあわせにしてもらいました」
彼らだから……僕たちと同じ道を歩む彼らだから言えることがある。言える事があるのなら、ちゃんと口に出して伝えたい。
僕を幸せにしてくれた宗吾さんへの感謝の言葉を──
「瑞樹……なんか……それ、すげー照れるな」
宗吾さんが僕の肩を抱く。すると丈さんも洋くんの肩を抱く。
「おにいちゃん、うれしそうだね」
僕は芽生くんを抱き寄せた。僕の腰あたりに芽生くんも嬉しそうにくっついてくれた。
端からみたら不思議な光景かもしれないが、僕らにとっては最高に幸せな光景だ。
「君たちも食事に? 俺らはもう帰る所だが、ここは本当にいいレストランだな」
宗吾さんが尋ねると、ふたりは本当に嬉しそうに顔を見合わせた。
君たちも、とても幸せそうだ。穏やかに慈しみ合っている感じが素敵だね。流石僕たちよりずっと長く付き合っているからなのか、何とも言えない深みを持つカップルだと改めてしみじみと思った。
「あぁ、今からランチをしてくるよ」
「デートの邪魔して悪かったな」
「いや、嬉しい偶然だった。いや、ここで出逢ったのは必然だな。そうだ、よかったら来月、北鎌倉に遊びに来ないか」
驚いた! 僕から言いだそうと思っていたのに、丈さんが先に提案してくれた。
「嬉しいです! 実は僕たちも6月に伺いたいと思っていました」
「瑞樹くん。本当にいいの? 丈、その時は俺たちの離れにも来てもらってもいいよな」
洋くんは心から嬉しそうに笑った。こういう時の彼は少し幼く感じる。
「……あぁ洋の好きにしろ」
「離れに泊まってもらっても? 瑞樹くん、君とゆっくりお酒を飲んで夜通し語ってみたかったんだ」
洋くんが甘えた様子でお強請りしているのが可愛いな。丈さんも美しい恋人の申し出には逆らえないようだ。
「嬉しいよ。ありがとう! 宗吾さん、瑞樹くん、芽生くん、ぜひ俺と丈の家に、一泊して下さい」
僕も嬉しい。まさかの宿泊付きで、しかも今度は洋くんの家になんて、本当に嬉しい申し出だった。
関東では……友達の少ない僕にとって、洋くんは大事な存在だ。
彼とはあらゆる部分で共通点が多い。だから彼の哀しみも喜びも自分の事のように嬉しく感じる。
「ぜひ!」
「来月なら駅から月影寺までは紫陽花がとても美しいから、瑞樹くんにぴったりな季節だよ」
「それは楽しみだな」
詳しい日程を決めて、今日はひとまず別れる事になった。
「じゃあ待っています」
「よろしくお願いします!」
「洋……そろそろ予約の時間だ」
「あっ、本当だ。瑞樹くん、また!」
レストランに向かって二人は歩き出した。
仲良く並ぶ距離は、手がぶつかりそうな程、近い。
その時になって丈さんが持っている紙袋に赤いカーネーションのアレンジメントが入っている事に気が付いた。
母の日のお祝い?
洋くんたちもするのかな?
でも月影寺には小さなお子さんはいないけれども……
それにしても丈さんと洋くんは、水が滴るような美丈夫と美男子だった。
「みーずき、おい、コラッ、いつまで見惚れている?」
「宗吾さん!」
冗談交じりに宗吾さんに言われて、苦笑した。
いやいや……僕の宗吾さんには敵いませんよ……なんて、ひとりで勝手に惚気てしまいそうになる。
「なんだ? 俺の顔をじっと見て」
「仲良さそうな光景にあてられちゃいましたね……なんだか僕……宗吾さん不足かも!」
「おっ、おいおい、煽るなー! まだ真昼間だ」
「えっそんなつもりでは!」
相変わらずの僕たちのスタイルはこれだ。
でもこれがいい。
これがとてもカジュアルな僕たちの日常の光景だ。
人には人の数だけの、しあわせが存在する。
本人同士が自分たちだけの、しあわせを感じて生きている。
それが一番だ……!
補足……
洋と丈は『重なる月』の主人公です。
『幸せな存在』内では、74話 Let's go to the beach 4 葉山の海で自作クロスオーバーさせております。
重なる月未読でも大丈夫ですので、ご安心くださいね!
洋は瑞樹より2歳上のとんでもない美貌の持ち主。
洋には暗く悲しい過去がありますが、外科医の丈と出逢い……今は北鎌倉の丈の実家である月影寺の敷地内の離れで穏やかな日々を過ごしているという設定です。瑞樹の大切な友人です。
ともだちにシェアしよう!