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紫陽花の咲く道 5

「ふぅ、やっと完成した!」 「おーお疲れ。そろそろ出ないと納品に間に合わないぞ」  隣で作業をしていた菅野が、腕時計を指さし急かしてくれた。 「わっ本当だ。リーダー、今から納品に行ってきても宜しいでしょうか」 「あぁ行先は銀座の写真館か」 「はい」 「近場だから徒歩になるな。気を付けて行ってこい。おっと雨が酷くなってきたぞ。ちゃんと傘は持っているか」  高層階のオフィスから外を見ると、窓硝子をぐっしょり濡らす程の雨脚になっていた。さっきまで曇天だったのに、いつの間に降り出したのか。僕は相変わらず花に集中すると、周りが見えなくなってしまう。 「……折り畳みですが、持っています」 「馬鹿だな。それではせっかくの花が濡れてしまうだろう」 「すみません」 「これを使え」  リーダーから透明の大きなビニール傘を貸してもらい、僕はブルーの紫陽花を基調にレースフラワーを散らした繊細なブーケを守るように胸元に抱いて、会社を出た。  わっ……すごい雨だ。  しかもついていない。いきなり信号待ちだ。  ここの信号は焦ったい程……長いんだよな。  透明のビニール傘に雨の雫が跳ねる音に耳を澄ましながら、根気よく待つ。  でも、たまにはこんな時間も悪くないのかも。  灰色の世界に色とりどりの傘の花が咲いているようで、思わず口元が綻んでしまう。  すると横からふと視線を感じたので振り向くと、桜色のスカートに雨模様をつけた可愛らしい雰囲気の女性が立っていた。  じっと僕を潤んだ瞳で見上げている。 「あの、何か」 「あのっ……少しいいですか」  初対面の女性に話しかけられる理由が見つからず首を傾げてしまた。しかも思いつめた瞳で見つめられて……人違いではと辺りを見回してしまった。  僕に突然……何の用事だろう? 「あのっそのお花とても綺麗ですね」 「わっありがとうございます」  花を褒めてもらうのは嬉しいので素直にお礼を言うと、女性は突破口を見つけたように話を続けた。 「あの、失礼ですが加々美花壇の方ですよね」 「え? あっハイ、あの、何で?」 「すみません。私、会社の下のコンビニで働いていて、実はずっと……あなたのことを見ていました。その……よかったら今度、個人的に会っていただけないでしょうか」  えっ! 個人的にって、つまりそういう事なのか。  先日の大沼といい、今日といい、何だか申し訳ない事が続く。  せっかく勇気を出して話しかけてくれたのに…… 「ありがとうございます。でも僕、実は……もうすぐ結婚しますので……」 「えっ! 結婚……」  彼女がしきりに僕の左手を見ようとしたので、そっとブーケの中に隠した。    別に何もつけていないのだから、やましいこともないのに……何故だか見られたくなかった。  僕は傘を揺らし、せめてものお礼と感謝の意を伝えた。    「そういう訳なので……本当にすみません。でもそんな風に言っていただけて嬉しかったです」  肩を落として去っていく女性を、静かに見送った。  悪い事したかな……  でも『結婚する』という言葉が、僕の口から自然と漏れたのには驚いた。けっして嘘じゃない。  僕の中で宗吾さんとは、もう……そういう立ち位置なんだ。白金のレストランで宗吾さんの気持ちも知る事が出来たし。ただ、まだ確定していない事実を、断る理由に勝手にあげたのには罪悪感が少しだけ湧いてしまった。  宗吾さんと僕は……  軽い気持ちで付き合っているのではない。  もっと深い絆で結ばれている。    僕はもう宗吾さん以外の人なんて、考えられない。  僕の全てを曝け出せる人が、彼だった。  ずっと一緒にいたい。  一緒に歳を重ねていきたい僕の家族が、彼だった。  信号が青に変わった瞬間、罪悪感は吹き飛んだ。  You can go now. It's green.  青は……進めの合図だ。  気を取り直して、僕は一歩また一歩と横断歩道を歩き出す。  その時になって真正面から宗吾さんが黒い傘をさして歩いてくるのが見えた。  もしかして……今の僕をずっと見ていた?  宗吾さんも仕事に向かうらしく、カメラ機材を担いだ人と肩を並べていた。 「瑞樹、ガンバレ!」 「宗吾さんも頑張って下さい」  ほんの一瞬だけ交わせた言葉に、元気をもらった。  仮に見られていたとしても、宗吾さんにやましいことはない。 「瑞樹、赤信号になるぞ。急げ!」  そのまま通り過ぎて行くと思ったら、宗吾さんが僕を追いかけてきた。   「えっ……でも宗吾さんはあちらに行くのでは」 「まだ時間がある。瑞樹は?」 「僕は納期の時間が迫っていて……銀座の遠藤美容室へ納品に」 「じゃあ歩きながら話そうか」 「はい」  思いがけず宗吾さんと雨の銀座を歩くことになって、ドキドキした。  傘に跳ねる雫のように、僕の心も跳ねていく。  四丁目の交差点に差し掛かった時、宗吾さんが突然足を止めた。  そこは有名な老舗宝飾店の前だった。  大きなショーウインドウには虹色の傘をモチーフにしたオブジェが輝いていた。 「瑞樹、今度ここに入ろう」 「え……?」  驚いて見上げると、彼は照れ臭そうに笑っていた。 「つまりさ、君のここに指輪を贈っても?」  そっと指差されたのは、ブーケも持つ手に隠していた左手薬指。 「宗吾さん……」  まるでさっきの会話が聞こえていたようで、猛烈に恥ずかしくなってしまう。 「さっきの……聴こえていたのでは、ないですよね」 「お! やっぱりさっき『結婚している』と言ってくれたのか」 「あっ……」 「瑞樹、嬉しいよ」 「もうっ、今は仕事中です!」  透明の傘で良かった。  僕から宗吾さんが良く見える!  彼が嬉しそうに笑えば、僕も嬉しくなる。 「正確には……『もうすぐ結婚する』……です。思わず勝手に……そう答えてしまいました」 「うぉ……瑞樹……俺、今、最高にしあわせだ」  あの日……シロツメグサの咲く野原で受け取った、宗吾さんからの愛の言葉を思い出した。   『今日は青空だが、明日の天気は分からない。雨かもしれないし曇りかもしれない』 『そうですね』 『どんな天気でも俺たちは寄り添って、いい時も悪い時も、互いが互いの傘となり過ごしていこう』 『はい!』  あの日は涙で滲んで、視界が水彩画のようだった。  今日は雨で滲んで、透明感があって美しい。 「瑞樹……君に指輪を贈ってもいいかい?」 「……あっ喜んで」  僕の返事は、あの日のように……  風が吹くように、花が咲くように決まっていた。    

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