364 / 1738
紫陽花の咲く道 16
月影寺に向かう途中、鎌倉の地ビールを扱う店に立ち寄った。
ビール好きな広樹兄さんに、鎌倉土産を贈りたくて。
「へぇ思ったより品揃えがいいな」
「そうですね」
大規模な設備で作る大手メーカーのビールは、均一な味で親しみやすく飲みやすき。一方、地ビールは手間暇かけて作るので、個性豊かな味わいになる。
なかなか函館を出られない兄さんに、北海道では飲めない味わいの地ビールを送って、せめてもの旅情を届けたい。
そうか……こんなに簡単な事だったんだ。
高校時代、函館から東京へ修学旅行に来た。
同級生が浅草で抱えきれない程のお土産を買っている中、ポツンと道端に立っていた自分に伝えたい。
(瑞樹もほら、皆に混ざっておいでよ。人形焼きが、とても美味しそうだよ。帰宅して、家族で食べたら、きっと美味しいよ)
本当に人生というものは、あの時こうしていたら……という後悔がつきものだ。
この件に関しては月影寺に着いたら、翠さんに聞いてもらいたいな。
あの葉山の海で、僕の悩み、心の葛藤に静かに耳を傾けてくれた翠さんは、寺の住職らしくどこまでも達観していた。
「おい、この大仏の絵柄のラベルって、広樹っぽくないか」
「わっ確かに!『兄さんに似ていると宗吾さんが言っていました』と手紙を添えますね」
「え? いや、それは余計だろう。『カッコいい兄さんのために、瑞樹が一生懸命選びました』が妥当だ。下手な喧嘩は売りたくないぞ」
「くすっ、兄さんと宗吾さんは似た者同士ですね」
「なぬぅ~」
その後、何種類も地ビールを試飲させてもらった。
結局、宗吾さんオススメの鎌倉の大仏がラベルの骨太な味わいのビールを選び、函館への送り状を手配した。
それから冷えた地ビールを沢山購入して、僕たちは月影寺へ続く坂道を上った。
どこまでも真っすぐに紫陽花が咲く道だった。
僕の心も思い思いに咲く紫陽花のように、ほんのり灯っていた。
心からリラックスしていた。
信頼できる人と、愛しい人と歩む道は、どこまでも凪いでいた。
****
瑞樹と芽生と一緒に、月影寺に向かう。
北鎌倉駅からタクシーに乗ってもよかったが、道中、紫陽花が見頃だと流が教えてくれたので、あえて徒歩にした。
小雨が降る中、道の両脇には、紫色……白……青と、色とりどりの紫陽花が咲いていた。
しとしとと降る雨の中、静かに咲いている花姿が、美しい。
「瑞樹、紫陽花が綺麗だな。そういえば紫陽花の花言葉ってさ」
「はい?」
「確か『移り気・浮気・冷淡、高慢・無情』って、あまり良くなかったよな」
「くすっ、でもそれはもう一昔前ですよ」
「えっそうなのか」
うぉぉーどうも俺は両親が年取っていたせいか、情報が古い時がある!
「今は? どういう意味がある?」
「今はとても素敵ですよ」
瑞樹と芽生が、顔を見合わせて、うふふと笑う。
「おい、もったいぶるなよ」
「あっ芽生くんも知っているんだね」
「うん、花の図鑑みたもん」
「わぁ、さすがだね。偉いね」
「えへへ」
おいおい……あんまりふたりでイチャイチャするなーと、息子に妬いてしまうじゃないか。
「僕が好きなのは『家族団欒』『家族愛』『仲良し』です」
「お! そっちの方が断然いいな」
「ですよね」
水色の傘の下で、瑞樹が優しく微笑む。
傘についた滴が軽やかに跳ねるのがスローモーションのように見える。
瑞々しい水滴がよく似合う男だな、君は。
梅雨に入り雨で曇り色が続くが、その中でも君は色鮮やかに見えるよ。
派手な色じゃない……水彩画のように優しい自然色を纏っている。
「おっ着いたぞ」
「わぁ長いかいだんだー」
「芽生くん、走ったら駄目だよ」
芽生が待ちきれないといった様子で、瑞樹の手を振り切って走り出した。
「コラっ! 待て、走るな!」
芽生には前科があるからな。
もう瑞樹に怪我させたくない一心で、俺は追いかけた。
「おいおい、チビチャン。学校で習わなかった? 階段は走ったら駄目だって」
突然後ろから話しかけてきたのは、さっき甘味処で会った薙くんだった。
「ブブー、ボクはチビチャンじゃないもん。メイだもん!」
「ふふ、羊のメイ、来いよ。一緒に遊んでやるよ。この庭には雨の日にはカエルが出るんだぞ」
「わぁー見たい! パパ、おにちゃん、さきに行ってもいい?」
一番年が近い薙くんに遊ぼうと誘われて、芽生の目は爛々と輝いていた。
「転ばないようにね」
「転ばないように」
俺と瑞樹の声が揃ったので、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
薙くんと芽生が、手をつないで仲良く階段を上がっていく。
あっという間に、軽快に上までいってしまう。
若さなのか……俺には追いつけないスピードだった。
「宗吾さん、なんだか僕たち、歳を感じません? やっぱり現役中学生と幼稚園児には敵いませんね」
瑞樹が傘を傾げて、その隙間から今度は甘えたように笑う。
ううう、もう我慢できない。
ここはもう月影寺の中で、雨のお陰で人っ子一人いない。
「ちょっといいか」
俺は彼の手を強引に引いて、近くの木陰に隠した。
「えっ? あの」
「もう燃料切れだ。少し栄養補給しないと駄目だ」
「ええっ?」
「階段……のぼれない」
「そんなっ」
俺は傘を素早く閉じ、瑞樹の傘の中に屈んで入った。
しとしとと降る雨の音が、BGM。
彼を木陰と傘の間に収めて、不意打ちを食らわせるように唇をもらった。
彼の雨のようにしっとりと湿った唇からは、さっき少し試飲したビールの味がした。
甘い吐息とほろ苦いビール味のキスか。
うん、大人っぽいな。
「こっ、こんな場所で」
「だが君だって欲しいって」
「ぼっ……僕は言っていませんよ」
「本当に? これでも」
瑞樹の唇を舌先で舐めて、すっぽり包んで吸い上げると、ふわっと甘い吐息が広がった。
「あ……も……駄目……んっ」
傘を持つ瑞樹の手が震え、雨が俺の肩に差し込んでくる。
「おーい風邪ひくぞ。寄り道は、ほどほどにしろよ」
突然、遠くから俺達を呼ぶ声にギョッとした。
「りゅっ流!」
「はははっ邪魔して悪かったな。でも翠兄さんが心配しているから呼びに来たぞ」
「おっおう!久しぶりだな」
キスしていたことはバレバレだろうが、流はそんな些細なこと気にしないようで、豪快に笑っていた。相変わらず気持ちがいい男だ。
「やぁ瑞樹くん」
「あっあの、こっこんにちは」
「ははっ動揺して可愛いな。やっぱり洋と似てるな」
「え?」
「洋も初めてここに丈と来た時、今のお前たちみたいに木陰でキスしてたよ」
露骨にキスをしていたと指摘され、瑞樹は持っていた傘をとうとう、ぽろりと落とした。
これはまずい。
絶対後で怒られる!
「お前なぁ、あんまり赤裸々に言うな! 俺の彼氏は繊細なんだぞ」
「おいおい、それを仕掛けたのは宗吾だろ! はははっ」
「も、もうっ──知りません」
ともだちにシェアしよう!