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箱庭の外 11

「おにいちゃん……行かないで、おいていかないで……」  絶望感に満ちた気持ちで……とぼとぼと歩き出した時、背後から芽生くんに呼ばれた。  切なく……か細い声だった。  その声にハッと我に返る。  違う、これは間違っている。  これでは僕一人、逃げるようなものだ。  宗吾さんに留守中の芽生くんの事を頼まれたのに、芽生くんの記憶にもない伯父さんに突然預けて……本当にいいのか。  人目を気にして途中で投げ出すなんて……結局、僕は自分が可愛いだけで、自分の体面を守りたいだけだった。  二人からどれだけの愛と信頼を与えてもらったのか、忘れたのか。  宗吾さんが近くにいない今、僕に出来る事はただ一つしかないのに!  僕は踵を返し芽生くんの元に駆け寄り、庇うように守るように、幼い躰をギュッと抱きしめた。 「芽生くん、ごめん! 君を置いて行こうとするなんて、僕が間違っていた!」 「ひっ……くぅ……おにいちゃぁん……」  急に見知らぬ場所で過ごす不安は、一番僕が解っていたはずなのに。  なのに、ちっとも学んでいなかった。 「ごめんね。僕と一緒にいよう、ねっ」 「うん、おにいちゃんがいい……おにいちゃん」  その様子を忌々しい様子で見下ろしていた憲吾さんが、僕の肩をグイッと掴んで引き剥がそうとしてくる。指が肩に食い込み、痛かった。でも僕は芽生くんを離さなかった。 「おいっ離れろ! いい加減にしないか。君が甥を奪う権利なんて少しもない! 法的にもな! よく考えてみろ!」 「それは重々理解しています。ですがっ! 法的な権利も大切ですが……今僕の胸で泣く……小さな子供の心にも、ちゃんと向き合って下さい。あなたが芽生くんの伯父さんと名乗るのならば!」 「何を……生意気な!」 (きゃ……ちょっと大丈夫なの?) (誰か……看護師さんを、呼んだ方がいいんじゃない?)  周囲で恐る恐る様子を見守っていた人たちの、心配そうな声が聞こえてくるが、僕の使命は、芽生くんに心細く、怖い思いをさせないこと。ただそれだけだ。 「こわいっ!」 「芽生くんっ、大丈夫だよ」 「お……オジさん……大きな声でおこらないで! こわいよぉ……ボクのだいじなおにいちゃんのこと……いじめないで!」  芽生くんの必死の言葉に、僕も涙が零れそうだ。  こんな会話、もう聞かせたくない。  芽生くんの耳を塞いで、庇うように抱きしめてやった。 「大丈夫。僕は大丈夫だから……僕が君を守るよ」 「おにいちゃん……うん、うん……おそばにいて」 「このぉ!」  怒りにまかせた声が、凶器のように突き刺さる。  もう逃げ出したい。だが、ここで踏ん張る。  ここで逃げたら、お母さんにも宗吾さんにも顔向け出来ない。  そして僕自身にも! 「芽生くんは僕が預かります。今後の事は、宗吾さんも交えて相談して下さい」  相手の目を見て、しっかりと言い放った。  憲吾さんの拳は、ふるふると震えていた。  青筋を立てている。  殴られる?   次の言葉と行動を、じっと待った。  何が来ても、受け入れる。  芽生くんを守るためなら、耐えてみせる。 「あなたっ、もうやめて!」 「あ……お前っ」 「芽生くんが震えて、怯えているのが解らないの?」 「うっ五月蠅いな!」 「お願い!こんな小さい子供に怖い思いさせないでよ」 「くそっ」  突然割って入ってきた女性と憲吾さんが険悪な雰囲気で話し出した。  ……本気でさっきは殴られるかと思った。 「看護師さんに話を聞いたわ。この方はお義母さんの命の恩人なんでしょう。その相手に向かって何を言っているの?」 「だが、彼は弟の……」 「それも理解している。でも……それとこれとは今は関係ないでしょう。あなたはいつも私に言うじゃない。『目の前の事実を受け入れろ』って!ならば、あなたも助けてもらった事実に、まず感謝しないと!」 「それはそうだが……くそっ、わかったよ」  仲裁に入ってくれたのは、どうやら話の流れから、憲吾さんの奥さんのようだ。そして僕の状況も理解してくれているようだ。  これは天の助けか…… 「ごめんなさい。主人がカッとなって」 「いえ……」  病院の薄暗い廊下で、振り返った女性の顔にハッとした。   「あっ……」 「え?」    つい最近だ……    恵比寿の路上で、この女性に会ったのは。 「あの……箱庭の」 「あっ、あなた! あの時、花を助けてくれた人ですか。 あの、虹の架け橋の……」  驚いた。  心を込めて、花を贈った人がいた。  その相手が、目の前に突然現れた。  今度は僕を救いに、やってきた。  再び、縁が繋がっていく──

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