390 / 1741
箱庭の外 12
「とにかく、今はお義母さんが大変な時なのよ。こんな場所で揉めないで!」
「美智……お前……」
確かに……僕達こんな事で争っている場合じゃない。
お母さんが苦しんでいるのに。
「分かったよ。とにかく俺は宗吾に連絡してくる」
「あ……はい」
本当は、宗吾さんには僕から連絡したかった。
彼にちゃんと事情を話して、安心してもらいたかった。
だって……宗吾さんは絶対に心配するだろう。
この状況を遠く離れたニューヨークで、お兄さんの口から聞くのは辛いだろう。
宗吾さんの気落ちを推し量ると、胸が塞がる思いだ。
彼には、もうこれ以上心配も迷惑もかけたくない。
でも今は出しゃばらない方がいい。
ここは相手の出方を待ってみよう。
僕はかなり気を張っていたらしく、憲吾さんが場を離れると急に脱力し、ヘナヘナと芽生くんを抱えたまま座り込んでしまった。
「お、おにいちゃん、だいじょうぶ?」
「うん……芽生くんのおかげでがんばれたよ」
「ボクね、おにいちゃんがもどってきてくれて、うれしかったよ。ほっとしたよ」
「さっきは、ごめんね」
「ううん、いいんだよぉ。おにいちゃんこそ、だいじょうぶ?」
まだ芽生くんも情緒不安定な様子で、つぶらな瞳をうるうると潤ませていた。
一時も離れていたくないよ。
宗吾さんがいない今、君を守るのは僕だ。
「不安にさせたね」
「おにいちゃん……だいすき」
「僕もだよ」
ふたりでギュッと抱き合っていると、憲吾さんのお嫁さんが優しく声をかけてくれた。
「あの……とにかく向こうに座りましょうか。何か飲みものでも……あなたと少し話したいし」
自動販売機で芽生くんにはオレンジジュース、僕にミルクティーを買ってくれた。
「おにいちゃん、ボク……ちょっとおねむ……」
「いいよ。だっこしているから、眠って」
「……うん」
芽生くんは、すっと眠りに落ちてしまった。
無理もない。夕方からずっと緊張の連続だったから。
「……色々と、すみません」
「いえ、こちらこそ恥ずかしい所をお見せした。私は滝沢美智《たきざわ みち》と言います。主人の失言を深くお詫びします」
「いえ……そんな」
奥さんが謝る事ではないのに。
「実は憲吾さんの弟さん……つまり宗吾さんとは、お互いの結婚式とお父さんのお葬式や法事でしか会ったことなくて。芽生くんはその時まだとても小さかったので。叔父や叔母のことなんて、覚えていないはずです」
「……そうでしたか」
なんだか緊張してくる。
今まで僕の身内サイドばかりだった。
宗吾さんのお父さんは3年前に他界されたそうなので、お母さんとしか接点がなかった。
僕はお兄さんの事を殆ど聞いていなかった。存在しか知らなかったので、どういう兄弟関係を築いてきたのか分からない。
「あなたは、宗吾さんの……その……」
言い難そうに、美智さんが僕に質問してきた。
ここまで来たら正直に話そう。
憲吾さんは、既に僕と宗吾さんの関係を察していたようだったし。
「一緒に暮らしています。この春から宗吾さんと芽生くんと……家族として」
「そうなんですね。あの……助けていただいたという事は、お義母さんとも面識が?」
「はい、お母さんには僕たちの関係を認めていただき、可愛がってもらっています」
「……なるほど、そうだったのね。あぁごめんなさい。私に偏見はないの。それにあのお義母さんが認めていると聞いて安心したわ。芽生くんがそれだけ懐いている様子を見ても、あなたがどんなに素敵な人なのか伝わってくるし」
どうやら、この女性は好意的なようでホッとした。
僕は人に憎まれるのが怖い。
それは幸せになった今でも簡単に割り切って、変われるものではない。
「私の話……少し聞いて下さる?」
「はい……あなたは箱庭教室で私の作った庭をご覧になったのよね? あのアレンジメントを作った意味も察して……」
「……えぇ」
「じゃあ話は早いわ。私は26歳で憲吾さんと結婚したの大学のゼミが一緒での縁だったわ。死産したのは、もうずっと昔の事なのよ。30歳を過ぎても妊娠しないので、不妊治療を始めてようやく授かった子だったの。なのに、もうすぐ会えると思っていた臨月に、突然胎動がなくなってしまったの」
それは……切なく苦しい告白だった。
お腹の中で何カ月もかけてじっくり育つ赤ちゃんを……希望に満ちた心で育てた女性にしか解らない悲しみ……喪失感がひしひしと押し寄せてくる。
「あれは辛く悲しいお産だったわ。それから、なかなか吹っ切れなくて。だって……もう、ちゃんと可愛いお顔だったし。あんな夫だけど、その時は一緒に泣いてくれてね。買ったばかりのベビーカーやチャイルドシート、ベビーベッド、赤ちゃんの洋服など……見ると辛かったわ」
気がつくと僕の瞳からも、涙が溢れていた。
赤ちゃんがこの世に無事に生まれて来てくれるのは、奇跡的な事だ。
いくら万全を期しても、臨月に死産が起こる可能性はゼロではない。
僕も、そうやってこの世に生まれてきた。
芽生くんも、みんな、誰もが……
ものすごい確率で、この世に生を受けて誕生する。
あたりまえのことが、どんなにすごいことなのか、考えさせられる。
「憲吾さんは裁判官をしているの。彼はとても現実主義で、規則と違うイレギュラーな世界が苦手で……これはもう個人の性格の差よね。私はその真逆でロマンチストで。なかなか喪失感から抜け出せなくて、そのせいで、この前恵比寿で見られちゃったように喧嘩しがちで。でも……私にはそれでも大切な人なの」
「……」
夫婦間の事は、端から見ると理不尽で理解し難い時もある。だが宗吾さんが話してくれたように、そこには当事者にしか解らない事実が隠れているのだろう。
だから、ただ黙って話を聞いた。
「真面目で規則違反が大っ嫌いな憲吾さんと、大らかでルーズな宗吾さんの折り合いは元々良くなかったそうよ。宗吾さんが高校生の時に一度だけ、お兄さんには自分が同性愛者だと告白していたらしいの。両親に言えなくて苦しかったようで……それを聞いた憲吾さんは、当時相当悩んだそうよ。普段自分を頼らない弟の隠れた面を見たとも」
そんな事があったなんて……
更に話しは続く。
「でも宗吾さんは就職して暫くすると唐突に女性と結婚したの。弟は言っている事と行動がバラバラで、いよいよ解らなくなったと。真剣にここ数年悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなったと……」
宗吾さんがいない場で、彼の過去を聞くのは居たたまれない。
それでも、しっかりと最後まで聞いた。
過去は過去なんだ。もう……
僕も宗吾さんも、辛い過去を経て、出逢った者同士だから。
何を聞いても受け入れる覚悟は出来ているから。
「ごめんなさい。私……勝手に話し過ぎたわね。夫のあなたへの暴言、本当にごめんなさい。あの人なりにお母さんが倒れた今、責任感を持っての発言で……あなたを傷つける酷い事を沢山言ったと思います……どうか許して下さい」
頭を深々と下げられてしまった。
「もう……大丈夫です。美智さんの真摯な思い……伝わってきましたから」
「えっと、あなたのお名前は?」
「あ……葉山瑞樹です」
「綺麗なお名前……えっと瑞樹くん、甥っ子のことを可愛がってくれてありがとう。ぐっすり寝ちゃったわね」
「そうですね」
「あなたに抱っこされて、ホッとした顔をしているわ。私が預かったらこんな顔……させてあげられなかっただろうな」
「……」
「私ね、失った子に固執し過ぎたみたい」
美智さんは泣きそうな顔をしていたが、必死に堪えていた。
「あの晩、夢で赤ちゃんに会ってきたの。あなたが虹の架け橋を作ってくれたから会えたのよ」
「そうだったのですね」
「赤ちゃんに言われちゃった。いつまでも泣いていたらボクも悲しいよ。ずっとママの涙が雨になって降って、冷たくて寒いよって」
「涙の雨……」
「そうなの。だからね、私、もう泣くのはやめたの。あの子に雨上がりの虹を見せてあげたくて」
「……雨上がりの虹は、綺麗でしょうね」
亡くした人は帰ってこない。
この世ではもう会えない。
だから残されたものは辛い。
どうやって乗り越えるかは、その人それぞれだ。
こうすべきだという指針はない。
僕の場合、宗吾さんと芽生くんと暮らす幸せが解決してくれた。
美智さんと憲吾さんの場合……
「きっと見つかりますよ」
「うん……まだ間に合うかな。私、不妊治療再開してみようと思って、憲吾さんも、それを待っていると思うの」
その時……パーテーションの向こうから、憲吾さんの声がした。
「美智……今の話……」
あとがき&補足(不要な方はスルーで)
↑
不要だとご指摘をいただいた事もあるので、毎回注意書きしております。
各自の判断でお読みくださいね!
****
ここ最近ドキドキさせてしまっていますよね!ちょっと補足を……
私もあまり長引かせたくなくて、話を進めるために、3300文字と長文になりました。更新を2話に分けてようかと思ったのですが、読者さまの心の健康も考慮して一気にあげる事にします。長文失礼しました。
今回のタイトルは『箱庭の外』と言う事で、現実の世界を描いているのでシビアな面もあります。苦手な方は申し訳ありません。
『幸せな存在』はある意味リアリティも大事にしていますので、思い切って挑戦しています。もう少ししたら……あたたかい家族の物語に戻りますので、どうかご理解&ご辛抱ください。
ともだちにシェアしよう!