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夏便り 24

「瑞樹、今日は会社を休ませて悪かったな。芽生のことを頼む」  肩に手を置かれて詫びられたが……腑に落ちなかった。 「……頼むだなんて、僕にとっても芽生くんは本当に大切な存在です。だから、どうか謝らないでください」 「そうか、そんな風に言ってもらえるのか。ありがとう……熱が下がらなかったら明日は俺が休むよ」 「分かりました。お互い協力しましょう。いってらっしゃい」  宗吾さんは優しく僕の髪に触れ……少し安心した様子で出掛けていった。  僕は彼の背中が見えなくなるまで、玄関先で見送った。  大丈夫……今日は僕に任せて下さい。  宗吾さんに教えてもらった引き出しには、芽生くんの健康保険証と母子手帳、お薬手帳が入っていた。  診察券の裏を確認すると、かかりつけの小児科は予約なしだと10時から受付と書いてあった。  まだ少し時間があるな。  今のうちに洗濯を干しておこう。 「芽生くん、ちょっと待っていてね……あ、やっと……眠れたんだね」   芽生くんは明け方になり深い眠りにつけたようで、今はぐっすりと眠っている。  なんだか不思議な時間だった。    普段だったら8時半過ぎには家を出るので、この時間に家に居る事はない。  心にゆとりが出来たのか……  芽生くんのシーツやパジャマを干していると、本当に数少ない幼い僕の記憶を、また一つ思い出せた。 ****  幼稚園に行く前の小さな僕は、玄関でお父さんを見送っていた。  お父さんは大きな手で、僕の頭を撫でてくれた。 『いってくるよ、みずき』 『パパ、おしごとがんばってね』 『あぁ、いつも優しいね。お前は可愛い子だね』  その後、お母さんが洗濯を干しているのを、僕は庭の芝生にしゃがんでじっと眺めていた。  緑の草原にはためく洗濯ものが綺麗だなと、目を輝かせていた。  お母さんが食卓の白いテーブルクロスを干した時、風に靡いて、まるで船みたいだと思った。 『おかあさん、きれい……おふねみたい』 『ふふ、そうね。人生は航海のようだから、しっかり帆をはらないとね』 『なあに、それ?』 『帆を張るっていうのは、自分が行きたい場所があるからなのよ。そのために勇気をもって、何かをやり遂げようとする前向きな心を忘れちゃだめよ。って、瑞樹にはまだ難しいわよね」    お母さんの言葉を鮮明に思い出して、震えてしまった。  行きたい場所があるから、帆を張る……  本当にその通りだ。  夏空を見上げれば、もくもくと入道雲が朝からビルの背後に立ちこめている。  もう夏も終わり間近だ。  ニュースを見ると、早い時間から雷雨の可能性があるという。  降られないうちに、病院に連れて行こう。 ****  まだ熱がひかずにダルそうにしている芽生くんを連れて、近所の小児科にやってきた。  夏風邪が流行っているのか待合室は小さな子供で一杯で、芽生くんよりもっと小さい子や赤ちゃんもいて賑やかだった。  狭い待合室で小さな子供を待たせるのって本当に大変なんだな。あの手この手でじっとさせるのに、大変だ。世の中のお母さんたちって、すごいと感心してしまった。 「……おにいちゃん、こんでるねぇ」 「そうだね。予約してないから少し待つかも。僕の肩にもたれていいよ」 「う……ん」 「お膝を枕にしようか」 「ん……」  うーん、やっぱり元気ないな。  いつも元気な子が病気でぐったりしているのは、見ている方も辛い。 「大丈夫だよ。僕が傍にいるからね」 「うん、おにーちゃん、ぼく、あのね、すごく……のどいたい」 「そうなんだね、先生に話してしっかり診てもらおうね」 「……うん」  不安そうにしているので、小さな手を握ってあげると、まだとても熱かった。  40分程待って、ようやく診察してもらえた。 「おやおや目が赤く充血しているね、プール熱が幼稚園で流行っているし検査しておこう」  目の粘膜を綿棒で採取する検査を突然された芽生くんは、僕にしがみ付いて大泣きだった。 「いやいやいやっ!!」 「よしよし」  いつも聞き分けのいい芽生くんも、こんな時は年相応だ。  僕のシャツが、汗と涙と鼻水で濡れて行く。  それでいい、病気の時くらい沢山甘えて欲しいよ。  5分後に再び診察室に呼ばれ、結果は陽性だった。  プール熱は3ー5日熱が続き、下がった後も2日間は自宅待機だそうだ。なかなか厄介な夏風邪の一種だそうで、脱水に注意することと、刺激の少ない食べ物について、先生は僕が年若い父親だと思ったようで、他の人よりもずっと丁寧に教えてくれた。  僕が宗吾さんと芽生くんと知り合ってから、芽生くんが高熱を出すことはなかったので、心配だ。  きっと……いろいろあったので疲れてしまったんだろうな。そう思うと小さな子供にいらぬ心配と負担を掛けてしまったと反省だ。  途中で歩けないと蹲ってしまった芽生くんをおんぶして、薬局に寄り、薬をもらい、ようやく自宅に帰宅した。  その頃には僕も、全身汗びっしょりだ。  待ったなしで芽生くんに水分を取らせ薬を飲ませて、パジャマに着替えさて、ベッドに連れて行くと、熱も高く怠いらしく、あっという間に寝入ってしまった。 「はぁ……僕も疲れた……子供の病気って、こんなに大変なんだ。世の中のお母さんって、やっぱりすごいよ」  ソファに深くもたれると、僕もそのまま眠ってしまった。 ****  ママぁ……ママどこぉ。  おのどいたい……よ。くすん……  みずき、おのどいたいの? かわいそうに。  おかあさんが、かわってあげたい。  え? だめだよ。ママがげんきじゃなくなるは、いやだもん。  まぁ……そうね。  ママがげんきじゃないと、あなたをまもってあげられないものね。  ママ……すき!  ずっといっしょ。 **** 「あ……」  涙が頬を伝い落ちて行くのを感じて、目覚めた。  僕、また……昔の夢を見ていた?  芽生くんを看病しながら、母の視点を体験しているからなのか。  頻繁に想い出す、埋めていた記憶。  芽生くんが僕の過去をどんどん解放してくれるようだ。  宗吾さんと知り合って、芽生くんを育てていくことの意味を知る。  僕の大切な記憶を解放してくれる人たちなんだ。  あなたたちは──  そう思うと、今の自分のことが、とても大切で……とても愛おしくなった。 「みずき、よかったな」  過去の自分に声をかけていた。    

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