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夏便り 25

 昼食に白粥を作ってみたが、芽生くんにはまだ無理だった。   「芽生くん、水分は取ろうね。お薬は飲まないと」 「んーんーおのどがいたいから、いやだ」  首を振って嫌がる。 「ゆっくりゆっくり飲んでみようか」 「やだやだ! いたいもん!」  いつもは聞き分けがいいのに、今日はすんなりいかない。  でもこれでいい。僕は芽生くんにとって甘えられる存在でもありたいから。   「……パジャマが汗で冷たいね。またお着替えしようか」 「う……ん、おにいちゃんがして」 「いいよ」  いつもよりずっと甘えっ子だな……相当身体が辛いのだろう。  僕の手で新しいパジャマに着替えさせてあげると、また倒れるように眠ってしまった。 「熱……なかなか下がらないね」  やはり普通の風邪よりもキツそうだ。  居ても立っても居られないが、もう病院に行って薬をもらったし、何が原因で熱を出しているのかも分かっているので、僕には何も出来ないのがもどかしいよ。  世の中の親は……子供が病気になると、こういう気持ちになるのか。  とにかく、今は僕がここにいる事が大事だ。  目が覚めたらすぐに僕が見えるように、ベッドの横に椅子を置いて読書をすることにした。  僕も少し気持ちを落ち着かせたい。  不安な気持ちになった時、必ず読む本がある。それはもう何度も読み返している『ランドマーク』というタイトルの本だ。  人生でただ一つの恋を、信念を持って貫き通した物語。  日本と英国、国籍の違う同性同士の恋物語の結末は、どこまでもハッピーエンドで、何度読んでも救いがある。  何度も何度も二人に襲いかかった試練を、そえぞれが別の場所から乗り越えて近づいていく様子に、いつも励まされる。  僕と宗吾さんは……出会う前に、それぞれ大きな別れを経験していた。にもかかわらず、その後も大小の試練に遭った。  だからこそ……道に迷ったり、心が弱くなってしまった時に、この本は僕の道標《ランドマーク》になる。  やがて日が傾き出した。  そろそろ夕食の準備をしないと……でも白粥が駄目なら、何を食べさせたらいいのかな。芽生くんは病気の時、何を食べたくなるのかな。  分からない事ばかりで、突然心許なくなってしまった。  宗吾さんのお母さんに聞いてみようか、それとも玲子さんに連絡すべきか……迷った挙げ句、結局どちらも出来なかった。  そこで母子手帳を開いてみた。  もしかしたら何かヒントが見つかるかも。  幼い頃からの病気の履歴も知っておきたいし……ページを捲っていると、途中に玲子さんの手書きメモが挟まれていた。 『芽生を置いて出て行く私を許さないで。母親失格なのは一番私が分かっています。でも今は、どうしても無理なの……育児日記に芽生の病気の記録など詳しく書いてあるので、見て……』  育児日記? 慌てて本棚を探すが、見当たらなかった。   「あ、もしかして……?」  もう一度保険証が入っていた引き出しを覗くと、一番下にあった。  勝手に見ていいのか迷っていると、タイムリーにも宗吾さんから電話があった。 「瑞樹、ありがとう。芽生の具合はどうだ?」 「それがまだ熱が高くて……病院で検査してもらったらプール熱だと言われました」 「プール熱か……確か3歳の夏にかかっていたような。とにかく原因が分かってよかったよ」 「はい、それで……玲子さんの書いた『育児日記』を読んでもいいですか。芽生くんの具合が悪い時の対処方法が書かれているかもしれないと……」  宗吾さんは少し気まずそうな様子だったが、了解してくれた。 「瑞樹が読んで面白いものではないかもしれないが、いいのか」 「……大丈夫です。大切な芽生くんの事を、もっと知りたいので」 「そうか、なら……読んでみてくれ。本当を言うと……いつかは君にも読んでもらいたいと思っていた」 「ありがとうございます」  本音を言うと、少しの勇気が必要だった。  育児日記には、妊娠出産の記録も混ざっていた。  それは、永遠に僕には縁のない世界の出来事だから。でも今後は、母親と同じ立ち位置で芽生くんの成長を見守りたい気持ちも、宗吾さんと一緒に男として見守りたい気持ちも、両方……僕には備わっているのを自覚したから、やはり読んでおこうと思った。  育児日記には、妊娠してから出産するまでの日常が綴られていた。  お腹に宿った子の誕生を、どんなに楽しみにしていたのか伝わってくる。  そして生まれてからの芽生くんの細やかな成長記録。寝返り、お座り、ハイハイした日の喜び。1歳から2歳の頃はよく病気をしていたようで、病院に行かなかった週はなかったとも。病気の時はいつもより甘えん坊になって、目覚めた時、ママがいないと泣いてしまったそうだ。  麦茶が好きで、一年中よく飲んで、ヨーグルトにイチゴのジャムをまぜたものも好き。  熱がさがると、元気いっぱいでほっとすると……  あぁ分かるな。その気持ち。    お絵かきが好きなので、病気が治りかけの時には、ベッドに机を置いて楽しんでいたとも。  成程……読めば読むほど、愛が溢れる内容だった。  どうして、こんなに愛していた芽生くんを置いて行けたのか。  僕には到底分かりえない事だ。  当事者にしか分からない事がある。外野が口出す事でないのは知っているが、やはり理解出来ない不思議な気持ちになってしまった。  同時にこんなに愛していたのなら、また一緒に暮らしたいと突然言ってくるのではと不安も芽生えてしまった。  もしそうなったら、僕はどうしよう。芽生くんのいない生活なんて、もう考えられないよ。  あぁ駄目だな、これでは僕が子供みたいだ。  路頭に迷った子供みたいにしょんぼりしていると、部屋の電気がパッとついた。  いつの間にこんなに暗くなっていたのか……振り返ると宗吾さんが立っていた。 「あ、お帰りなさい! もうこんな時間でしたか」 「直帰出来たんだ。どうした? 電気もつけないで」 「あ、あの」  考えていた事がバレてしまいそうで、慌てて育児日記を後ろに隠してしまった。でも宗吾さんには、もう全部バレているようだ。 「……今日はありがとう。夕食にうな重を買ってきたぞ」 「あ、僕……ぼんやりしていました。洗濯物もまだ……」 「君は看病で疲れただろう。手伝うよ。そういえばお昼間の雷雨は大丈夫だったか」 「……こっちは降りませんでしたよ」 「会社の方は通り雨がすごかったよ」  宗吾さんの顔を見たら、ホッとした。同時に、いろいろ悪いことばかり考えてしまったなと反省した。 「瑞樹……大丈夫だよ。芽生はどこにもいかない。それはもう十分アイツと話し合った上で、解決しているんだ」 「すみません。僕……」 「大丈夫か」 「……芽生くんが、お母さんにたっぷり愛された子供で良かったなと」 「ありがとう、そうだな。その愛情を俺達が引きついでいこう。瑞樹、君とふたりで!」  宗吾さんの言葉が僕を元気づけて、勇気づけてくれる。  過ぎ去った日々に、これ以上杞憂しても無駄だ。  見えない未来に怯えても……仕方がない。  だからやっぱり今……この瞬間を大切に過ごすのが一番大事だ。 「宗吾さん……」 「瑞樹も寂しくなったのか。おいで」  宗吾さんが僕を甘やかしてくれる。  だから僕は素直に、宗吾さんの胸元に飛び込んだ。  

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