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白銀の世界に羽ばたこう 13

 車で走り抜けたのは、忌々しい過去。    瑞樹は耐え忍ぶだけの男ではなくなっていた。自分の力で乗り越えたいと願う男に成長していた。優しくて清楚で、俺の家の中では母親的役割を買って出てくれる君の底力を見せてもらえた。  今はもう穏やかに松本さんと語らう様子に安堵すると同時に、まだどこかで……こっそり無理をしていないかと、心配な気持ちにもなる。  瑞樹は松本さんのお姉さんにも深くお辞儀をして、あの日助けてもらった感謝を伝えていた。改めて……もう元気に幸せにやっている姿を見せたかったようだ。    1時間ほど歓談した後、玄関先で別れの挨拶を交わした。   「瑞樹くん、また会いましょう」  また会おうか……その言葉はいいな。  瑞樹には、もうどうしても会えない人がいるから。  瑞樹は人との別れを、いつも極端に怖がっていた。 「ホテルへは、うちのハイヤーを使って下さい」  松本観光のタクシーで、宿泊先の老舗ホテルに移動する。  今度は道を間違えない。  俺が予約したのは百年以上の歴史があるクラシカルなホテルだ。早く俺だけの瑞樹になって欲しい。瑞樹が次々に過去を乗り越えて行く姿が気高すぎて、俺を置いてひとりで飛んでいってしまいそうになり、引き止めたくなった。  はぁ……参ったな。なんて自分勝手な感情なんだ。俺は今まで、こんなひねくれた感情持ったことないぞ。    「おにいちゃん、もうだいじょうぶなの?」 「さっきは……車に酔ったみたいで、ごめんね。芽生くんは大丈夫だった?」 「うん! ワクワクしているからかな~ このとーり、げんきいっぱい」 「よかったよ」 「宗吾さん……どんなホテルなのかワクワクしますね」    車の揺れと同時に瑞樹の重みを右肩に感じた。君がさりげなく俺にもたれ、甘えてくれていることが分かり、一気に嬉しくなった。  ホテルは森に溶け込むように建っていた。あの忌々しい貸別荘とは別物の佇まいにほっとする。まるでヨーロッパの山小屋のような洋風木造建築で、白壁に木の骨組みが浮き出た外観は、信州の民家のような和みもある。  都心のマンション暮らし。コンクリートとガラスの無機質な世界に暮らす俺たちにとって、ここは別世界だ。   「どうだ? 気に入ったか」 「はい、素敵なホテルですね」  車を預け、三人でホテルを見上げた。 「おにいちゃん、このホテルさんって、きのこみたい」 「え? きのこ?」 「うん、森の中にひょっこりしぜんにはえているみたい」 「あぁ、そうか……、うん、そうだね。宗吾さん、芽生くんの言葉にはいつもハッとしますね。建物が自然と共存し呼吸しているみたいで、とても落ち着きますね」 「そうだな。『きのこホテル』か。芽生はいいこというな」 「えへん!」    大自然で生まれ育った君だから、こういう場所に連れてきてやりたかったんだ。気に入ってもらえて嬉しいよ。  チェックインした、ズシッと重い真鍮の鍵を受け取り、赤いふかふかな絨毯の上を歩く。  ところが、瑞樹の足取りが少しふらつていた。 「大丈夫か。ふらついているぞ」 「え? そうですか」  自覚がないのか……まずいな。とにかく客室に入ろう。  部屋の家具は年季が入っており、天井が高くゆったりとしていた。とりあえず瑞樹の腕を掴んで、大きなベッドに腰掛けさせた。 「瑞樹、正直に言え。やっぱり相当無理したんだろう」 「……すみません……今になって、どっと疲れが」 「まぁ、あれだけがんばったのだから、無理もない。少し休め」 「でも……」  部屋に入って、すぐに瑞樹をベッドに寝かせた。   「言うこと聞けよ」 「でも……少し休めば元気になりますから……お……」 「なんだ? ちゃんと言ってみろ」 「……お……置いていかないで……下さい」  置いて行かないで……  グッときた。  それは過去の瑞樹が、ずっと叫びたかったことじゃないのか。  両親と弟を亡くした君が、叫びたかったこと。  恋人に捨てられてしまった君が、叫びたかったこと。   「あぁ、置いていくもんか! 置いて行くはずない。少し寝てすっきりしたら、楽しい晩飯だ。メインダイニングを予約してあるんだ。芽生にはスペシャルお子様ランチをな」 「あ……、すみません。僕……一体、何を言って」  瑞樹が困惑した表情で、口元を押さえている。  置いて行かれた子供のように、心細い顔になっている。  すると……俺たちの会話を聞いていた芽生が、小さな手で瑞樹の背中を優しく撫でた。 「パパ、あのね。さみしいときはね、こうするといいんだよ」 「め、芽生くん……」 「おにいちゃんは、いい子、いい子……きょうは、よーく、がんばりました」 「うっ……」  やばいぞ、やばい。俺も泣きそうだ。 「よーし、みんなで昼寝? じゃなくて夕寝をしよう」 「ボクもねむたい」  俺もジャケットを脱ぎ捨てて、瑞樹の横に入った。  芽生とふたりで瑞樹に寄り添って、目を閉じた。 「温かい……」  瑞樹がふっと息を吐くと同時に呟いた言葉に、また泣けた。 「大丈夫だ。俺たちがそばにいるよ」 「……はい」  俺たちに包まれた瑞樹が、一番初めに……そっと目を閉じた。  窓から中庭の立派な木が見える。  夕日が心地よく降り注ぎ、風もなく静かだったので、一休みするにはいい時間といい場所だった。  やがて芽生も、うとうとと眠りにつき、俺も珍しく眠りに落ちた。  あぁ……これが、家族の時間だ。  俺たちだけの時間が、熟成されて……まろやかに流れていく。    

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