646 / 1749

春風に背中を押されて 4

 3月の花業界は、卒業式や謝恩会の会場生け込み、送別会のための大量な花束作りと、大忙しだった。    宗吾さんと湯布院の宿を予約した晩は、緊張してなかなか寝付けなかったが、その後は考える暇もなく慌ただしく時が流れ、いよいよ明日は芽生くんの幼稚園の卒園式だ。  卒園式が終われば、間もなく……僕らは湯布院に行く。芽生くんの卒園旅行も兼ねて、春の旅行だ。 「お兄ちゃんも明日、来てくれる?」 「うん、行くよ」 「わーい! よかった。ぜったい来て欲しかったから、うれしいな」  実は宗吾さんに卒園式の参列を誘われた時、仕事を理由に最初は断ってしまった。しかしどうしても一緒に見て欲しいと懇願されて、やりくりをした。断っておきながらも、熱心に誘われて、嬉しかった。僕って……案外、天邪鬼なのかな。   「そうだ! 制服を綺麗にしておこうね」 「うん、もう明日できなくなるんだね」 「そうだよね」 「ちょっとさみしいね」 「うん」  芽生くんの幼稚園の制服にアイロンをかけていると、感慨深いものが込み上げてきた。  まだまだ小さくて可愛いな。それでもチェックの格子縞のズボンは、出会ってから一度買い換えたし、ジャケットはもう袖が短くてギリギリだ。可愛い半ズボン姿も、きっともう見納めだろう。  芽生くん……君は幼稚園生でなくなってしまうのだね。  夏樹がなれなかった小学生になる。大きなランドセルを背負って、2週間後には小学校の校門を潜ると思うと、ワクワクもするよ。 「瑞樹、悪いな」 「宗吾さん! そうだ、ビデオの充電はしましたか」 「あ、しまった。まだだったよ」 「お願いします。僕は一眼レフを持って行きますね」  子供の節目は、親にとっても節目で一大イベントだ。  宗吾さんは理髪店で髪を整え、さっぱりしている。やっぱり宗吾さんもお父さんなんだな。親として気合いが入っている。そんな様子が微笑ましい。  あ……そうか、僕も一緒に切ればよかったな。少し伸びたくせ毛を指先で摘まんで、後悔した。 「どうした?」 「すみません。僕の髪、少し長かったですよね。式に相応しくなくて申し訳ないなと……」 「いや? 俺はその位が好きだよ」 「あ……はい」  宗吾さんが長めが好きだというので、すっかり伸ばすのがクセになっていた。  一馬と付き合っている頃は、どうだったのか思い出せない。おかしいな、7年も付き合ったのに、こんなに記憶がないなんて。  あいつが何を好んで、僕は何を求めていたのか。  思い出が極端に少ないのに、今更気が付いた。  宗吾さんと芽生くんと過ごした2年間では、驚くほど沢山の出来事があり、色々な思い出で溢れているのに、対照的だな。  ひとつだけ言えるのは、一馬と僕は極端なほど、未来の話をしなかったという事実だ。  ずっと先のことを考えるのが、僕は怖かった。そんな贅沢をしてはいけないと、いつも思っていた。人はいつ死ぬか分からない。だから未来を考えるのは無駄だと考えていた。  あの頃の僕は、随分失礼な生き方をしていた。誰に対しても一線を引いていたのだ。  こんな僕に一馬はよく付き合ってくれたよ。愛想を尽かすことなく……7年間も。  僕は一馬が何も聞いて来ないのが心地良くて、ずっと甘えていた。だが人は歳をとる。同時に周りの人も老いていく。付き合っていくうちに……お互いだけ、今だけを見つめていればいい訳で、なくなってきたのだ。  そんな歪みから、きっと、あいつは未来を真剣に考え出したのだろう。  だから……僕たちの別れは必然だった。  なんとなく、いつかこうなるだろうと想像していた事が起きただけ。  もちろんいつの間にか、あいつの人生のレールから外れていたのは寂しかったし、置いて行かれるのもかなり辛かった。  しかし、どうしても言えなかった。  一人生き残っただけでも贅沢なのだから、夢や希望を抱いてはいけないと、自分で自分の首を絞め、戒めていた。  だから一馬は僕を捨てて行ったが、僕は彼を恨んでいるわけではない。  僕には描けなかった未来を、隣の女性と描いて行って欲しいと、あのホテルのロビーで、心から真剣に願ったよ。  幸せになってくれと――永遠のさよならをした。  じゃあどうして……今になって行くのか。おそらく、あの日冷蔵庫に貼ってあった……あいつからの置き手紙が心にひっかかっているからだ。  僕の変わった姿を見て欲しい。  僕もちゃんと未来を夢見るようになった。  お前とではないが毎日、ちゃんと前を向いて過ごし、潤いのある日々を送っている。 「瑞樹……何を考えている? もしかして……湯布院行きが負担になっているのか」 「違います。僕もある意味『卒業』をしに行くのかもしれませんね。『幸せな復讐』とは、過去の僕との卒業式になりそうです」  そう告げると、宗吾さんが優しく肩を抱いてくれた。 「成程、そういう考え方もあるよな。よーしっ、しっかり卒業して、俺だけの瑞樹になってくれ」 「……はい。あの……僕はもうとっくに……そのつもりです」  

ともだちにシェアしよう!