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春風に背中を押されて 3
大分・湯布院
「カズくん、春斗 を寝かしてくるわね」
「あぁ、悪いな」
「ううん、 私の方こそ……宿の仕事をあまり手伝えなくてごめんね」
「とんでもないよ。助かってるよ。今日はそのまま休んでくれ。俺は新規予約のチェックをしてから眠るよ」
「はーい! じゃあ、お休みなさい」
去年の2月に生まれた春斗も、もう1歳を過ぎた。子供の成長は早い。よちよち歩きをするようになって、最近、たどたどしくだが『パパ』『しゅき』とまで言ってくれるようになった。
ますます可愛い盛りだ。
おしゃべりもあんよも、他の子より早い成長に、父さんが生きていたら、どんなに喜んだだろうと、つい思ってしまう。この子に会わせてやりたかったな。
「お休み」
春斗を抱っこした妻が、寝室に行くのを見送ってから、ひとりで珈琲を入れた。それからPCの前に座り、宿のホームページを開く。最近は、1日の終わりに珈琲を飲みながら新規予約の確認をするのが日課になっている。
おっ、通知が届いている。
新しい予約が入っていたので、クリックして宿泊者データを開示した。
今度はどんなお客様で、どこからいらっしゃるのだろう? どんな風におもてなししよう。
いつもの調子でモニターを見ると、マウスを持つ手が、ぴたりと止まった。
飲みかけの珈琲を慌てて机に置いて、モニター画面を今一度凝視した。
「えっ、どうして?」
『宿泊代表者・葉山瑞樹』
はやまみずき……俺の見間違いではないよな? 俺が知る『葉山瑞樹』は、この世に一人しかいない。目を擦って何度も確認してしまった。
「どうして……瑞樹から予約が? あいつ……まさか単身で来るのか」
信じられない心地で詳細をクリックすると、同行者がいた。
大人と添い寝の子供、合計3名の申し込みになっていたので、ほんの少しがっかりした自分に驚いた。
おい? 俺は今更、何を期待している? いい加減にしろ! と自分を詰ってしまった。
それにしても大人と子供って、一体誰だ? 瑞樹と子供という組み合わせが想像出来ずに、困惑してしまった。
俺が瑞樹を東京に捨てて来たくせに、置き去りにしたくせに……こんな考え自体、図々しい! 瑞樹が別れる瞬間まで、俺を愛していてくれたからだ。こんな図々しい考えを抱くのは。
そうだ、住所は……? もうあそこには住んでいない、とっくに引き払ったはずだ。
申し込みの住所は、俺たちが同棲していた坂の上のマンションから、ほど近い場所だった。
同姓同名の他人ではない。瑞樹に間違いない。ここに引っ越したのか。もしかして、この人達と暮らしているのか。あぁ……確認したいことばかりだ。
もう消してしまった携帯番号は、今でも記憶に残っている。申し込み情報に記載された固定電話ではなく、今すぐ瑞樹自身に電話をかけようと思えば、かけられる。
気になって、気になって仕方がない。
どうして、あれから2年が経とうとしている今になって、俺の元にやって来る? 二度も東京ですれ違い、もう二度と会えないと思っていたのに、瑞樹の方から遙々やってくるなんて、どういう風の吹き回しだ?
意図を知りたくて、スマホの電話の画面を開いた。
080-43××-×××
最後の4は、手が震えて結局押せなかった。
今更、電話してどうする? 妻を苦しめるだけだ。瑞樹も苦しめるだけだ。
俺は……どうしていつも自分勝手なのだろう。
男なら一度決めた道を悔やむな。俺があの日どんなに惨いことをしたのかは、俺が一番よく分かっている。
瑞樹の優しさに甘えて、別れを決めた後もギリギリまで一緒にいたのも、最後の最後まで瑞樹の身体の中に居させてもらったのも、全部覚えている。
瑞樹特有の花の香りが身体に移るほど抱き合った最後の夜が、永遠にサヨナラだったはずだ。
予約日は3月の最後の週末か……その日が来るまで我慢しよう。
きっと俺の前にやってくる瑞樹を見れば、全ての答えが見つかるだろう。
それにしても、何故ここが分かったのだろうか。
「そうか、あのポストカードか」
父が亡くなった時、瑞樹から届いた供花のお礼に、この宿のポストカードを、かつての俺たちの家に送った。それでこの宿の住所が分かったのだろう。
思い返せば……瑞樹、俺たちは秘密ばかりだったな。
7年も一緒にいたのに、お互いの実家の詳しい住所を教え合わなかった。
瑞樹は優しい花のような人だったが、どこか掴めない、どこかこの世に執着がないような生き方をしていた。それが何故だかは……最後まで聞けなかったな。聞いたらそのまま消えてしまいそうで、怖かった。
そんな瑞樹らしからぬ……今回の突然の予約に、ハッとした。
そうか……今の瑞樹には俺の知らない新しい風が吹いていて、その力強い風に後押しされて、やってくるのだ。
きっと俺に見せたことがないような幸せな笑顔で、やってくる。
俺がすべきことは……その笑顔を、旅館の主として迎え入れるだけだ。
季節は、間もなく春を迎える。
きっと瑞樹の訪れと共に……湯布院にも春がやって来るのだろう。
****
瑞樹……もう眠ったか。
さっきは心の狭いことを言って、ごめんな。
俺も覚悟を決めて行くよ。君と湯布院に――
長年連れ添った君の前の彼氏との対面には、俺も実は緊張している。
だが、俺は君の背中を押す風になりたい。
力強く、あたたかい春風のように――
君と知り合ってから今日まで、俺たちが築いた確固たる愛があるから、大丈夫だ。
堂々と行こう!
湯布院に、春の訪れを知らせよう。
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