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春風に背中を押されて 2

 その晩、俺はPCの前で、じっと腕組みをしていた。  ふぅ……流石にそろそろ覚悟を決めないとな。せっかく瑞樹がスキー旅行を経て『幸せな復讐』をしに行く覚悟が出来たのだから。  やがて子供部屋の扉が開く音と共に、瑞樹が小さな欠伸をしながら出てきたので、呼び止めた。 「瑞樹、芽生は寝たか」 「はい、ようやく。今日はランドセルのことで興奮していましたよ。付き合っていたら……僕も眠くなってしまいました」 「そうか。気に入ったものが見つかってよかったな」 「楽しみですね。小学生になるのが」 「あぁ、だがその前に……ちょっといいか。こっちに来てくれ」 「はい?」  パジャマ姿で眠そうに小首を傾げて近づいてくる瑞樹は、あどけない表情だった。このままベッドに連れ込みたいが、今日は駄目だ。やるべきことがある。 「瑞樹、湯布院に行く日程だが……」 「あ、はい」  瑞樹の顔にも、さっと緊張が走る。 「3月の下旬の土日でいいか」  卓上カレンダーを指さして確認すると、瑞樹は恐縮したように謝った。   「はい。あの……すみません」 「何を謝る? 春休み中だから飛行機は早めに押さえたくてな。あと、その……宿泊先の宿を教えてくれないか。君の……前の……」 「……はい。あの……ありがとうございます。僕が予約すべきなのに。少し待って下さい」  瑞樹は一度自分の部屋に戻り、1枚のポストカードを手渡してくれた。 「これは?」 「実は……あいつから……届いていたんです。秋に……北鎌倉の月影寺から供花《きょうか》を贈った後に」 「そうだったのか」  差出人は書いていないが、大分・湯布院の旅館のポストカードだった。掛け流しの檜風呂の写真と雄大な由布岳の景色が風情を醸し出していた。ポストカードの一番下には、見えるか見えない程の小さな文字で「ありがとう」と書かれていた。  これが瑞樹の前の彼氏の筆跡か……初めて見せてもらった。    大らかそうな人柄が覗える、ゆったりとした文字だった。   「ありがとう」の5文字に、長年連れ添った瑞樹への感謝が込められているのが伝わってきた。  あまり詳しくは聞いていないが、瑞樹が大学1年生から社会人3年目を迎えた春までの長い付き合いだったはずだ。改めて考えると、7年近いのか。俺と玲子より長い……。 「……ここが、あいつの実家の旅館です。宗吾さん……あの、本当にいいんですか。僕と一緒に行って下さるのですか」 「当たり前だろう。他に誰が行くんだ? 君の幸せな復讐には俺が必要だと思ったが、違うのか」 「あ……」  瑞樹は頬を染めて、俺に抱きついてくれた。 「宗吾さんと芽生くんがいないと成り立ちません! 本当に……本当にありがとうございます!」 「あぁ、早速、予約してみよう」  旅館のホームページを探し、直接、宿に予約をした。  宿泊者の代表者には、少しだけ迷ったが『葉山瑞樹』と入力した。 「えっ……あの、僕の名前でいいんですか」 「そうじゃないと気付かないだろう。宣戦布告ではないが……いきなり過ぎると気の毒なので……うん、これは予告だ」 「……なんだか、すみません」  瑞樹は申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。  俺が提案した『幸せな復讐』は、『復讐』という言葉が物騒過ぎるが、実際には、幸せな姿を見せに行くのが目的だ。 「おいで……もう、そんな顔するな。俺も湯布院に行っていい湯に浸かりたいし……君が7年間も過ごした男の顔を拝ませてもらいたい」 「あ……僕は……もう宗吾さんだけなんです。どうか、どうか信じて下さい」  瑞樹が必死に首を振って縋ってくる。しまった! 俺、今……嫌味を言ってしまったと、反省した。こんなにまでも瑞樹からの愛を享受しているくせに、つまらないこと言った。 「すまない。嫌な言い方をして」 「いえ……事実ですから。それに、もしも逆だったら……僕も同じことを思います。宗吾さん、僕だって……かつて玲子さんに妬いたりもしました」 「あの時は俺こそすまなかった。君は忍耐強かった。だが……もう溜め込まないでいい。俺たち、ちゃんと全部話そう。俺たちはそれぞれ別の過去を持っている。それを認め合おう」 「……はい」 「今の幸せな姿は、過去を経ての俺たちの姿だ。だから前の相手のことを隠さないくていい。忘れなくていい」 「……はい、でも思い出す暇もないほど、僕は宗吾さんと芽生くんとの生活に埋もれています」 「俺もだ」    瑞樹が甘く微笑んで、俺に口づけしてくれたので、俺からもお返しした。 「ん……ふっ、あぁ……」  甘い蕩けるように口づけを交わすうちに、お互いの少しざわついていた心が凪いでいく。言葉で、心で、身体で…………あらゆる手段が、俺たちの間には存在する。  君を失うことのないように、歯車がずれそうな時は立ち止まり、深呼吸をしていこう。  ****    宗吾さんが飛行機の切符も、宿も押さえてくれた。 『葉山瑞樹』の名前で入れた予約。  一馬……お前が僕の名前を、宿泊者名簿に見つけたら、どんな反応するのだろう。  実際に今の僕を見たら……驚くかな。それともホッとするかな。  そんなことをぼんやりと考えていた。  あの時は……まだ好きなまま別れた。  だからこそ……ちゃんと見せたい。  僕はもう大丈夫、潤いある日々を送っていると。    

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