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幸せな復讐 10
(瑞樹……)
俺が捨てた人だ。
もう二度と呼んではならない人の名前を、心の中で呼んでしまった。
あんな風に別れ……あんな風に置いていてごめんな。
君を中途半端に捨て、会う資格もない俺の所に、本当に来てくれたなんて感無量だ。
「……次のお客様、どうぞ」
いよいよだ。
覚悟を決めて瑞樹を呼ぶと、小さな男の子と手を繋ぎ、隣に立っている背の高い大柄な男と甘く優しく見つめ合ってから、真っ直ぐ歩み寄って来てくれた。
ズキン――
その一瞬の光景に胸の奥が痛んだ。
なんだ……この感情は?
まさかこの後に及んで、少し妬いているのか。
自分がしたことを棚に上げて。
俺は本当に、自分勝手だ。
今は旅館の主と宿泊客だ。
しっかりしろ――
ポーカーフェイスで応対することに徹しようと努めた。
「あの、お名前を」
「……葉山瑞樹です」
「この度はご予約ありがとうございました。こちらの登録カードにお名前をご記入下さい」
「……はい」
瑞樹が繋いでいた手を離し、右手でペンを握る。
ふと目をやると……その右手には、新鮮なシロツメクサの指輪が可憐に揺れていた。横には四ツ葉のクローバーまで揺れて。
瑞樹がペンを走らせる度に、まるで瑞樹の幸せが満ちあふれてくるようだった。
ぼんやりとその様子を眺めていたら、突然、瑞樹から声を掛けられた。
「あの……元気だった? 僕は元気にやっているよ」
驚いて、言葉に詰まってしまった。
まさか瑞樹の方から、そんなに優しく話し掛けてくれるなんて……予期していなかった。期待していなかったから。
相変わらず瑞樹からは、花のようないい匂いが漂っていた。この匂いを包み込むように、君と何度身体を重ねたことか。仕事帰りの瑞樹を抱くと、俺の心も潤った。
花に癒やされ、瑞樹に癒やされ、時は流れるように過ぎていった。
思わず、君に手を伸ばしたくなった。だが花のような匂いに、先ほど息子と遊んだ野原で嗅いだお日様の匂いが感じ、ハッとした。
もうこの香りは……俺のものではない。
今、目の前にいる瑞樹は横に並ぶ男性と、小さな子供と幸せに暮らしているのだ。
「……最後にサインをお願いします」
「あ……はい」
紛れ込んだ春風に、紙が飛ばされそうになったので、瑞樹が左手でパッと押さえた。
そこには銀色の真新しい指輪がキラリと輝いていた。
あぁ、そういうことなのか。
瑞樹……幸せになったのだな。
潤いを増した、イキイキと輝く表情の瑞樹。
君の手元の指輪が、全てを物語っている。
そうか。瑞樹は……あの手紙の返事を届けに来てくれたのか。
……
瑞樹は俺にとって、ずっと水のような存在だった。
瑞樹を抱けばいつも渇いていた心が潤った。
そしていつも抱くと花のようないい匂いがして心地良かった。
だが俺はもう二度とお前を抱けない。水をやれない。
だが、瑞樹は水を忘れるな。
君を置いていく俺を、恨んでくれ。
おこがましいが、どうか幸せになって欲しい。
……
瑞樹は愛情という水を吸って、大地に根付いて、今を前向きに生きている。
瑞樹は幸せを掴んだのだ。
さっきから様子がおかしい俺の様子を、妻が心配し、気遣うように声を掛けてくれた。
「あなた、大丈夫? フロントを代わりましょうか」
「あぁこちらのお客様の後に、代わってくれ」
今の俺には、可愛い息子と若女将をしてくれる大事な妻がいる。
瑞樹は瑞樹の幸せを……
俺は俺の幸せを掴んだということか。
「こちらがキーです。ごゆっくりとお過ごしください」
事務的にそう告げると、瑞樹は昔のように優しく微笑んでくれた。
「……ありがとう。いい思い出を作っていくよ」
まただ……また瑞樹から優しい言葉が届く。
俺は緊張してマニュアル通りの言葉しか発せないのに、瑞樹には、おおらかなゆとりがある。
瑞樹は、あの頃よりも更に魅力的な男になっていた。
あとがき(不要な方はスルーです)
****
昨日は瑞樹視点、今日は一馬視点です。
短編よりももっと深く、彼の気持ちを書いてみました。
長編の醍醐味ですね。
昨日で完結したような勢いでしたが、旅行編はまだ続きます。
お付き合い下さると嬉しいです。
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