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幸せな復讐 14

 俺は、子供用の法被を手に持ったまま、道端で固まってしまった。  瑞樹は、もう大丈夫だ。  もう微塵の隙間も無いほど、瑞樹はあの親子を信頼し愛情溢れる日々を過ごしている。  風呂場から聞こえてくる声は、『幸せな家族』そのものだ。  俺があの日置き手紙で願ったことを、瑞樹はこの2年という歳月をかけて、育んで来たのだ。  あの親子の元に……自ら歩み寄っていく君の背中を、静かに見送った気分だった。  瑞樹から、歩み寄れたのだな。  でもまだ……瑞樹がこんなに変わったのが、俺はまだ信じられない。  俺が知る瑞樹は、自分に厳しかった。寂しがり屋のくせに、幸せに背を向けてしまう男だった。  北国の凍える冬のように、じっと毎日、見えない何かに耐えていた。 「一馬は……南国の太陽のように、暖かいな」  そんな言葉をよく贈ってくれた。だから俺は、ただ瑞樹が凍えないように、不安にならないようにしてやることで精一杯だった。今考えれば、浅はかだったな。    守るだけでなく、ふたりで育てていくこともせずに……結局、それに俺が勝手に疲れて、瑞樹をぽつんと一人残して、捨ててしまった。  そうか……あの親子は瑞樹を守るだけでなく、大空に羽ばたかせてくれたのか。俺にはしてやれなかったことを、成し遂げてくれたのだ。    やがて、風呂場から声が消えて静かになった。  ちゃぷん……と、お湯の音だけになった。  そろそろ、届けても大丈夫か。  かなり気を遣い、ゆっくり時間を空けてからインターホンを押したつもりだったのに、目の前に現れた瑞樹の姿には、心底驚いてしまった。  湯上がりの君は浴衣を着てはいたが……ざっくり羽織った程度なので目のやり場に困った。タオルに包んだ裸の坊やを抱っこして、さっきまで笑っていたらしく、笑顔の名残を纏っていた。  滲み出る幸せが、眩しい。  最後の日まで強く深く求め合い、抱き合った身体は、当たり前だが、もう俺のものではない。  少しだけ切なく、それでいて相変わらず自分勝手な男だと自嘲してしまった。 **** 「カズくん、遅かったわね。今日どうしたのかな? 調子悪い?」 「ごめん。急に……過去を思い出してしまって」 「過去? 何か後悔があるの?」 「そうだな」 「そっかぁ……そういえばね、一番大きな後悔って『分かっていたのにしなかった』『できるのにやらなかった』という何もしない罪悪感だと聞いたわ」 「あぁ、そうかもな。俺は……最後まで卑怯だった」 「カズくん?」  妻は帳簿をつける手を止めて、俺と真剣に向き合ってくれた。 「私にはカズくんの過去を全部知ることは、出来ないわ。カズくんも私の過去を全部知ることは出来ないでしょう? だから……カズくんの後悔が何かは分からないけれども、そこだけに留まらないで。カズくんは今の自分にも後悔しているの?」 「していない! 俺は幸せだ! 思いやりのある優しい君と可愛い息子、親父から継いだ仕事にもやり甲斐を感じている!」  そこは譲れないところなので、即答した。本心からそう思っている! 「くすっ、ありがとう。私も同じよ。人には誰にでも後悔はあるわ。でもね……今、ここにいる自分は、その過去の後悔の上に成り立っているのだから、後悔したことも含めて、自分の生き方を認めたくない? 今を真剣に生きることで、過去の後悔から……羽ばたいていけるのよ」  あぁ、そうか。そうなのか……。  妻の言葉が、俺を救ってくれる。 「後悔から……もう、羽ばたいてもいいのか」 「当たり前よ! もしも……あなたが傷つけたと思う人がいるとしたら、その人も……きっとそれを願っていると思うのよ。過去の中で生きては駄目よ。カズくん!」  明るく前向きな妻が、いつも俺の手を引っ張ってくれる。  九州男児たるもの……とか、男なのに情けないとか、そういう気持ちは皆無だ。  人には得手不得手がある。男でも女でも居心地の良いポジションがある。  俺は……それを素直に認められる伴侶を得た。 「君と結婚して良かった」 「ありがとう。なんだか照れるね。親が決めたお見合いからだったけれども……もうそんなこと関係ないわよね。私達、とてもよい関係を築いている。そう思っているわ。だから二人で手を取り合って、もっともっと大空に羽ばたこう。いつか……大切な縁があった人と空ですれ違うかも。そんな時は、お互い笑いあって手を振り合えばいいわ」  潔い妻の言葉が、俺を導いてくれる。  明るい未来が、見えてくる。  瑞樹はあの親子と、俺は俺の家族と、この先の人生を共に過ごす。  それがベストだ。  お互いの幸せを、見せ合って……お互いの後悔から卒業しよう。

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