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幸せな復讐 25
歩く速度は、変えなかった。
近づくにつれ、それが誰かはハッキリ分かっていた。
一馬……だ。
こんな場所で、まさか……すれ違うなんて、どうしよう。
話しかけるべきか。いや、もうフロントで会話はした。あれで充分では?
それに、これ以上、話してどうする?
過去をぶり返してどうする?
宗吾さんがいない場所で、ふたりで話すのも躊躇われる。
頭の中でぐるぐる考えていると、ちょうど真横ですれ違った。
気まずくて目を合わせられず、結局俯いたまま会釈だけして通り過ぎてしまった。
だが……通り過ぎてから、一気に心がざわついた。
これでいいのか。本当に、これでよかったのか……瑞樹。
自問自答してしまった。
こんな機会もうない。だから今こそ、今度こそ……ちゃんと、言葉で向き合うべきではないのか。
****
涙を手の甲で拭き取ったのに、またはらりと流れるもんだから、もう勝手に流れろと、顔をグッとあげた。
すると、前方の視界に入った人影に、心底驚いた。
こちらに向かって坂を上ってくる男性がいた。ほっそりとしたスタイルのいいシルエットには、よく見覚えがあった。
瑞樹だ。
白いシャツを風にはためかせ、ベージュのタイトなパンツをはいて、春風のように柔らかい雰囲気を振りまいて歩いてくるのは、瑞樹だった。
あぁ……そうか、露天風呂の彼氏の所に行くのか。
そう思うと、俺が話し掛けては駄目だと思った。
もう瑞樹は新しい人生を歩んでいる。幸せになっている。そして俺も同じだ。
もういつまでも過去に固執しては、駄目だ。
だから旅館の主とお客様として、軽い会釈だけしてすれ違った。
瑞樹は気まずそうに俯いたまま会釈して、行ってしまった。
本当にこれで良かったのか、後悔はないのか。
こんな機会、もうないのでは。
ちゃんと向き合うべきでは……
****
一馬とすれ違った。
僕は坂を上り、一馬は下る。
ここが……分岐点だ。
だが……心残りがある。
よし、10歩、歩いたところで、僕は立ち止まろう。
もしも一馬が振り返ってくれていたら、話をしよう。
そう思って――
9歩、10歩……
くるりと振り返ると、まるで鏡のように一馬もくるりと振り返ってくれた!
「あ……」
「瑞樹、やっとタイミングが合ったな」
本当に自然に、一馬が僕を『瑞樹』と呼んだ。だから僕も『一馬』と呼んだ。もう二度と呼び合うことはないと思っていたのに。
「一馬」
「瑞樹、今、少し話せるか、いや、ちゃんと話したい」
「うん」
お互いに近寄った。
今は旅館の主と客ではない。
瑞樹と一馬だ。
「どうだ? よく眠れたか」
「あぁ、よく眠ってすっきりしているよ」
「そうか、良かったよ。わざわざ大分まで来てくれて、ありがとうな。俺、東京に二度行ったけど……会えなかったな」
「……すれ違ったね、2回も」
「ずっと気になっていたから、来てくれて嬉しかったよ」
あぁ、信じられない。
2年ぶりなのに、本当にスムーズに話せている。
「……僕も、気になっていたから」
「瑞樹は、今、あの親子と暮らしているのか」
「あ……うん、そうなんだ。宗吾さんと芽生くんと言って、僕の大切な家族なんだ」
「そうなんだ……そうか……本当に良かったな……うっ」
「えっ?」
一馬の語尾が濡れたので、不思議に思って顔を見つめると……頬が濡れて、目が赤かった。
「え……どうした? 一馬が……泣くなんて」
どんな時も……お前は泣かなかったのに。
「俺は、瑞樹に酷いことをした。でも……瑞樹は、いい水を得て、綺麗に咲いている姿を見せてくれた。さっき露天風呂で彼に会ったんだ。大らかで良さそうな人だな……それでその後、坂を下っていたら、何故か涙が止まらなくなった。瑞樹が……幸せになっていたのが嬉しかった……本当に良かった」
男泣きに、グッとくる。もう……その涙で充分だよ。
「泣くなよ。一馬も幸せになってくれていた。それを見ることが出来て嬉しかった。いい奥さんだね。明るくて前向きで……素敵な女性だ」
「あ……そうか。昨日女将の挨拶で会っているんだな」
「うん……」
「ありがとう。瑞樹……俺と7年間も一緒に過ごしてくれてありがとう……生涯を過ごす縁ではなかったが、あの7年は俺にとって大切な思い出で、青春だ」
一馬が手を、スッと差し出して来た。
僕もちゃんと言おう。ずっと感謝していたことを……あの時気付けなかったことを。
「一馬はいつも透明の傘のように僕を守ってくれていたんだね。僕の事情を何も話せなかったのに、詮索することもせず……ただ傍にいてくれた。とても暖かかった。一馬がいてくれたから7年間、息を出来た……生きて来られた」
「大袈裟だな。でもそうか……そんな風に思ってくれていたのか。それを聞けて、嬉しいよ」
僕の方も手を出して、握手した。
久しぶりに触れる一馬のぬくもりだった。
「ありがとう、一馬……僕を愛してくれて。最後まで優しくしてくれて」
「礼を言うのはこっちだ。瑞樹、君を愛させてくれてありがとう。結婚式……見送りに来てくれて、ありがとう……それから、父の時は、供花をありがとうな」
「え? ……知って」
「……偶然知った……どちらも嬉しかった。心に沁みた。あんな風に別れた俺の幸せを願ってくれて……ありがとう」
ギュッと握る手に力が入った。
「俺も瑞樹の幸せを願っている。彼と幸せになれよ。もう充分幸せだろうが、この先もずっと家族、仲良くな」
「一馬こそ!」
「ここで話せて良かったよ。立ち止まってくれてありがとう」
「僕もだ」
「瑞樹……最後にお願いがあるんだ」
「何?」
「……あのさ、またいつか偶然すれ違ったら、笑顔で、こんな風に手を振ってくれるか」
一馬が手を自分から離し、僕の前でバイバイと手を振った。
「いいね……うん、振るよ。こんな風にだね」
僕も胸の前で、手を小さく振った。
さよならよりも、もっと軽やかに……親しみを込めて。
そのまま、僕たちは歩き出した。
別々の方向に――
「あっ……」
坂の上では、宗吾さんと芽生くんが待っていてくれた。
「お兄ちゃん~! こっちだよ」
「瑞樹、来い!」
ふたりが手招きしてくれる。
僕の足は、一気に軽くなる。
羽が生えたように軽く、坂を駆け上っていく。
僕の戻る場所。
僕の生きる場所。
宗吾さんと芽生くんの輪の中に……入ろう!
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