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幸せな復讐 29

 目の前で、芽生のおろしたてのトレーナーに醤油が点々と派手に飛び散った!  それだけでも驚きだったのに、今度は隣で瑞樹がおしぼりを伸ばそうとした手をひっかけて、オレンジジュースの入ったグラスを自分に向けて倒してしまった。  ビシャッと効果音が聞こえるほど派手に飛び散り、君に似合っていた真っ白なリネンのシャツがオレンジ色に染まっていく様子を、スローモーションのように眺めてしまった。 一瞬、俺も固まってしまったよ。  グズグズと泣く芽生に、父親として駆け寄るべきか。 子供のようにジュースをひっくり返してしまい、耳朶まで染めて俯く瑞樹に、恋人として助けに入るか。  うーん、だが……芽生も瑞樹もやることがそっくりになって来たと思うと、妙に愉快な気持ちになってしまった。 「ぷっ! お前たちが仲良しなのは知っているが、何もそこまでお揃いにしなくても……ははっ!」 「あ……宗吾さん……くすっ、確かにそうでよすね」  瑞樹が俺の笑いにつられて、可愛く笑ってくれた。 「おにいちゃんとおそろいかぁ、そっか~」    芽生も涙を引っ込めて、俺と瑞樹を見てニコッと笑った。 「くすっ、芽生くんが笑ってくれました。本当に宗吾さんのそういう明るいところ好きです」 「おいおい、公衆の面前で愛の告白か~! 瑞樹、出血大サービスだな。照れるぜ!」 「ち、違いますって! もうっ、ははっ、宗吾さんって、いつも本当に……くくっ」  瑞樹が腹を抱えて、楽しそうに明るく笑ってくれた。 『今泣いた烏がもう笑う』  俺が小さい頃、母によく言われた言葉を思いだした。 ……  宗吾、毎日いろいろなことが起きるけれども、切り替えは早い方が、より豊かな人生になるわ。起きてしまったことはもう取り戻せないでしょう。『覆水盆に返らず』よ。今、何が最善か考えなさい。 ……  いつも何かと諺を出しては、分かりやすく人生というものを教えてくれたな。俺がポジティブ思考になれたのは、母さんの影響が強い。 「お客様、お怪我はございませんか。これをお使い下さい」    すぐに若女将が、慌てておしぼりと雑巾を持って駆けつけてくれた。  和装の若女将がおしぼりを瑞樹に渡し、自らは瑞樹の足下に跪いてジュースを拭き出した。 「宗吾さん、すみませんが芽生くんを拭いてあげてください」 「瑞樹は?」 「先に床を」    瑞樹はその場にしゃがみ込んで、必死に床を拭く若女将の手を制した。 「ここは僕が拭きます。あなたの綺麗な着物が汚れてしまいますので」 「え……ですが、お客様にそんなことさせられません」 「いいえ、僕のしたことです。任せて下さい」 「あ……ありがとうございます」     瑞樹が優しく微笑めば、女将は少し顔を赤らめて素直に従った。 「お客様、ありがとうございます。よろしければ息子さんのお洋服のしみ抜きをさせていただきたいのですが。お醤油はすぐにしっかり落とさないとシミになります。それにそちらのお客様のお召しものも、かなり濡れているので、一度お洗濯した方が」  意外な申し出に戸惑った瑞樹が俺を見上げたので、大きく頷いてやった。   「瑞樹、ここは素直にご厚意に甘えよう」 「あの……本当に宜しいのでしょうか」 「もちろんですよ。早い方がいいので、こちらに皆様でいらして下さい」 「あ、はい」    妙なことになったが、様子を見るか。 「炊事場や洗濯場はこの時間、フル稼働で使えないので、恐縮ですが、私の自宅の洗濯機で洗っても宜しいでしょうか」 「え……あ、はい」  瑞樹がちらちらと俺を見るので、また大きく頷いてやった。  しかし、まさか瑞樹の前の彼氏の新居にお邪魔するとは。だがここは素直に流れに任せよう、これも縁があってのことだ。 「お兄ちゃん、ここのおやどの人はとってもやさしいね」 「そうだね。本当に助かるね」  フロントの横の扉を開けると渡り廊下があり、そこから自宅へ繋がっているようだ。    「散らかっているので恥ずかしいですが、どうぞお入り下さい」  スリッパを出されて、俺たち3人はおずおずとお邪魔した。  ****  まさかの展開で、頭がついていかない。  一馬はどこかでこの様子を見ているのだろうか。  まさか僕が、お前の奥さんと一緒にお前の家にお邪魔するなんて。 「では早速しみ抜きをして、そのままお洗濯をしますので、ここで脱いでください」 「はーい!」  芽生くんが勢いよく、醤油のついたトレーナーを脱いだ。  僕もと、ボタンに手をかけると、慌てた宗吾さんに制された。 「おっと……瑞樹は駄目だろ?」 「あっ!」 「あ、すみません。お邪魔ですよね。あの、私は何か着替えを取って来ますので」 「いえ! そこまでは申し訳ないです。部屋に戻れば昨日着た服があるので」 「でも風邪を引いてしまいますし。せめて息子さんのだけでも」 「……ではお言葉に甘えて、芽生くんのを」  やり取りを聞いていた宗吾さんが、突然自分の着ていたシャツを脱ぎ出した。 「そ、宗吾さん?」 「瑞樹は俺のシャツを羽織ってろ!」 「あ……はい」  中に半袖のTシャツを着ていた宗吾さんがニカッと明るく笑うので、素直に従った。  その様子を若女将が見ていたので、流石に僕たちの関係を察してしまったのではと心配になったが、理解があるのか何も突っ込まず、ただ優しく見守ってくれた。 「では息子さんのお洋服だけ、持ってきますね」 「おにいちゃん、やさしいお姉さんだね。おようふく洗ってくれるし、かしてくれるなんて」 「そうだね。本当に……なかなか出来ないことだよ」  宗吾さんのシャツは僕にはかなり大きいので、必死に腕まくりした。 「宗吾さん、すみません。寒くないですか」 「全然! 俺は暑がりだ」 「くすっ、あとでちゃんと上着を着て下さいね」  暫くすると、若女将が戻ってきた。 「あの……これ新品ですから、袖を通してもらえませんか。お洋服が乾くまでどうぞ」 「でも、申し訳ないです、そこまでしていただくわけには」 「いえ、きっと義父も喜びますので」 「え?」 「あ……すみません。亡くなった主人の父が、生まれてくる孫の成長を楽しみに、生前にずいぶん先のお洋服まで沢山買ってくれたんです」  それって……一馬のお父さんのこと?  『生まれてくる孫』って、もしかして一馬には、子供がいるのか。   「そんな大切なもの……」 「いいんです。着て貰った方が喜びます」  誰が……とは聞けなかった。 「瑞樹、可愛い洋服だな。この場合は素直に甘えても、いいんじゃないか」  宗吾さん……    人と人って不思議ですね。  いろいろな縁がありますね。 「本当に……何から何まで」  今までの僕だったら「すみません」と頭を下げる所だったが…… 「ありがとうございます!」    僕は顔を上げて、笑顔でお礼を言った。

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