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見守って 9
青い車を抱きしめていると、芽生くんがパタパタと戻ってきた。
「お兄ちゃん、明日のじかんわりあわせたよー! はやくお風呂に入ろう」
「そうだね」
早くお菓子が食べたいなので、すばしっこいね。
満面の笑みで誘われたら、断れないよ。
裸ん坊になった芽生くんのお腹はぷっくり膨れていて、それがまた可愛かった。
餃子沢山食べていたものなぁ。しかし甘い物は、やはり別腹だね。
「あのね、さっきお兄ちゃんのわらったおかおとボクにてるっていわれて、うれしかったよ」
「お兄ちゃんもだよ」
「えへへ」
宗吾さんによく似た顔で、にっこり笑う芽生くんのことを、目を細めて見つめた。
本当に君は、僕の大好きな人の面影を色濃く受け継いでいるね。
大好きだよ。ずっと――
「早く、あらわないと」
「あっ、もうお膝は痛くない?」
「うん! もうだいじょうぶだよ」
「良かった」
転んで怪我をしても、ちゃんと皮膚は元通りになっていく。人生もそうだね。良くない事が起きても、ちゃんと治療すれば……元通りになっていく。僕の右手の傷痕も……もうこんなに薄くなった。ちゃんと動くようになった。
お風呂上がりに、芽生くんにホットミルクを作ってあげた。
「どれにする?」
「えっとね、このクッキーがおいしそう。こんがりしていて」
「そうだね。今日はこれを食べてみよう」
芽生くんとクッキーを食べると、ほろりとした気持ちになった。
この味って、もしかして?
「お兄ちゃん、とってもおいしいね。手作りっていいね」
「うん! そうだ、セイにお礼の電話をしてくるね」
この時間なら、セイも一息ついてゆっくりしているだろう。
「もしもし、セイ?」
「お、瑞樹! 元気か。久しぶりだな」
「うん! 変わらず元気にやっているよ。今日荷物が届いたよ、ありがとう」
「あー、勝手に送りつけてごめんな」
「いや、ちょうど僕もこの青い車を思いだして、送ってもらおうと思っていたから驚いたよ」
芽生くんが電話の横で、青い車を走らせていた。
「うちの子がさ、瑞樹の使っていた部屋で見つけたんだ。まだおもちゃを丁寧に扱えない年頃だからさ、妻と話し合って瑞樹の元に戻すことにしたんだ。あれはとても大切な宝物なんだろう?」
「ありがとう。そうだったのか。ごめんね。まだ私物が……その通り、母が買ってくれた大切な車だよ」
「やっぱりな、あとで車の裏を見て見ろよ」
「うん? あ、あとクッキーなど沢山ありがとう。セイの手作り、すごく美味しい」
「よかった。宗吾さんにも食わせてやれよ」
「わかった。あの……」
あれは母のレシピ……僕の舌が覚えている。
「セイ、ありがとう。懐かしい味だった」
「へへっ分かったか? 瑞樹の母さん、料理上手だったよな。お菓子もいつもうまかったよ。俺も作っていて懐かしくなった。小学生の瑞樹は、いつも美味しそうな匂いがしていたもんな」
「え?」
「お菓子の匂いがしみついていたのかもな」
「そんな、くすっ」
僕って、もしかして匂いを吸収しやすいのかな?
宗吾さんには花の香りがすると言われるし。
「また遊びに来いよ。芽生くんも大きくなっただろうな」
「春から小学生だよ」
「そっか、じゃあお菓子は入学お祝いだ。遠慮無く受け取ってくれ」
セイとの電話を切ったあと、芽生くんを呼んだ。
「芽生くん、車の裏を見せてくれる?」
「うん?」
くるりとひっくり返すと、黒いマジックで文字が書かれていた。
「あ、何か書いてあるよ」
「なんて?」
「『みーくん』って」
「あ……」
「ほら?」
僕の膝にのせられた車の腹には『みーくん』と懐かしい母の文字。
「うっ……」
ただでさえ母の味のクッキーに懐かしい気持ちが迫り上がっていたのに、もう駄目だ。
震える指……右手の人差し指で、その文字を一文字ずつ丁寧に辿った。
……
「瑞樹? そんな所で何をしているの?」
「……な、なんでもない」
僕は子供部屋の片隅で、膝を抱えて蹲っていた。
「みずき? 何を持っているの?」
「何も……」
「ほら、おいで」
お母さんが僕を立ち上がらせると、足下に青い車が残った。
車輪が取れてしまった……壊れた車だった。
「あら? 壊れちゃったの?」
「ご……ごめんなさい」
「いいのよ、もしかして……夏樹がこわしちゃったのね」
「ち、ちがうよ。僕のせいだ」
僕が大切な車を出しっぱなしにしていたからだ。夏樹には悪気はなかった。まだ小さくて、加減が分からないだけだ。
「ぐすっ、ご、ごめんなさい」
「いいのよ。みーくん」
お母さんがギュッと抱きしめてくれると、ホッとした。
「こっちにおいで」
お母さんに手を引かれて階段を下りた。
「パパ、これ修理できそう?」
「ん? あぁ出来そうだ。小さなネジ回しを持ってきて」
「よかったね」
お父さんが器用に分解して、車輪のパーツを取り付けてくれた。
「あ、ありがとう」
「瑞樹、ちょっと壊れた位で全部駄目になったと悲観するな。こうやって修理したり出来るんだからな」
「うん……」
「そうだ。瑞樹、お名前ペン持って来て」
お母さんが青い車の腹に『みずき』と丁寧に名前を書いてくれた。
「これはママとみーくんの思い出の車だから、とっても大切なの。だから……忘れないように書いておくね。それにいつか瑞樹に乗せてもらう約束も兼ねて、お名前を書いたのよ」
「ママ……! ありがとう」
つい幼い子のようにお母さんを呼んでしまった。
「ふふっ、みーくん。おいで!」
両手を広げた母の懐に飛び込んだ。
「うん! パパもママも、大好き……」
……
あの日の僕は、今の芽生くんと同い年だった。
お母さんが話してくれたことを、全部思い出せた。
そして静かに泣いた。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
「あ……ごめんね。泣いたりして」
「ううん、これはお兄ちゃんの大切な思い出がつまった車なんだね。ボクの家にようこそ!」
「ありがとう。芽生くん」
芽生くんがティッシュを持って来て、僕の涙を一生懸命拭いてくれた。
「泣かないで、もうさみしくないよ。お兄ちゃんにはボクとパパがいるよ」
「うん、本当にその通りだよ」
芽生くんの方から僕を抱きしめてくれたので、また……はらはらと泣いてしまった。
「お兄ちゃん、今日の涙は、とてもキレイだよ」
「芽生くん……っ」
母を想う涙を……綺麗だと言ってくれる芽生くんが愛おしくて溜まらないよ。
「芽生くん、あとで青い車で遊ぼう」
「うん!」
お父さんの言った通りだ。
突然、壊れてしまった僕の家族。
でも心の修理が終わったら、こんなに幸せな家族が……日常が待っていた。
小さなことに怯えずに生きる大らかな宗吾さんという人と、その息子の芽生くんと出会えた。
僕の青い車は、今日、ここから発車する。
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