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見守って 18

「もしもし、兄さん!」 「おー、どうした? みーずき」 「あ、あのね、きょ……今日憲吾さんと会うんだよね?」  電話口の向こうで、軽く笑われた。 「おいおい、落ち着けって。今日は小さい時みたいに舌っ足らずだな。何を焦ってるんだ?」 「え?」  僕、小さい時そんなしゃべり方をしていた? 恥ずかしいな。っと、急ぎの用件があるんだった! 「憲吾さんと連絡を取りたいのに掴まらなくて困っているんだ」 「んーどうした? 彼ならあと30分くらいでここに来るぜ」 「ほ、本当!?」 「あぁ、遅れるようなら連絡をくれると言っていたが、ないしな」 「よかった! 実は奥さんが破水して入院してしまって」 「お? 破水からか、じゃあ生まないとな」  流石、広樹兄さんだ。 考え方が宗吾さんと似ていて……大らかでどっしりとしている。 「うん、明日の朝から促進剤を使うからたぶん、明日中には出産になるかと」 「なるほど。そうだろうな」 「でも美智さんは一度死産を経験しているから、今、入院先の病室でナーバスになっていて」  兄さんならきっと分かってくれる。みっちゃんもまもなく臨月だから。 「不安だよな。こんな時は旦那さんに傍にいて欲しいよな。おしっ! そっちに明日には戻れるように働きかけてみるよ!」 「兄さん、ありがとう」 「なーに、他人事じゃないぜ。兄さんに任せておけ!」  優しい兄だ。  いつだってこうやって……僕の折れそうな心をギリギリのところで支えてくれていた人だった。改めて10歳から18歳まで一つ屋根の下で暮らした兄の優しさが身に沁みた。 「あのさ、瑞樹」 「何?」 「赤ん坊、無事生まれるといいな。憲吾がそっちに戻るまで不安だと思うが、応援している」 「ありがとう! みっちゃんも変わりない?」 「あぁ、明日から臨月だぜ。こっちは6月生まれになるかな」 「楽しみだよ。生まれたら会いに行くね」 「ありがとうな、みずきおじちゃん」 「わ……まだ早いよ」    電話を切って暫くすると、憲吾さんから宗吾さんに電話がかかってきた。  その後、憲吾さんは美智さんに電話したようだった。    その晩、なかなか眠れなかった。  今、美智さんは病室で不安に押し潰されそうになっている。  その気持ちが痛い程分かるから。  死は怖い……別れは怖い……。  その経験が蘇ってしまっているのでは。 「瑞樹、どうした? 眠れないのか」 「あ……すみません。気になって」 「俺はさ、兄さんは帰ってくると思うよ」 「でも憲吾さんは仕事熱心だから、どうでしょう? 帰りたくても帰れないんじゃ……裁判官の仕事は自分の都合で変更出来ないでしょうし」 「あー、それな」  布団の中で宗吾さんに抱きしめられた。  広い胸元に顔を埋めると安心出来る。 「さっき母さんに聞いたんだけどさ、兄さん転職してたよ」 「え?」 「裁判官から弁護士になったんだ。だからさ……裁判当日じゃなければ、事務処理だから戻って来られるかもしれないぜ。兄さん次第だが……今日は広樹が近くにいるから背中をドンっと押ししてもらったと思っている」 「知らなかったです。明るい希望を持てますね」 「希望っていいよな。いい方向になるよう願えるしな」 「はい……」 「みーずき。明日の朝、時間あるか」 「え?」 「実は母さんが結構疲れてるんだ。兄さんが来るまで君が代わりに支えてあげてくれないか」 「え?」 「美智さんの心に寄り添えるのは、瑞樹、君だよ」  チュッとおでこにキスをされ、くすぐったくなった。  宗吾さんはすごい。  いつだって僕を巻き込んでくれる。 「いいんですか」 「もちろんだ。美智さんも可愛い弟が来たら喜ぶよ」 「嬉しいです」 「瑞樹の存在が優しい花なんだよ。君がいると皆、癒やされる。俺の家族にとって瑞樹はそんな存在だ。だから兄さんも変わった。妻を、弟を……母を想う人になった。そんな兄さんのところにやってきた赤ん坊だ。皆でサポートしような」 「はい! はい……宗吾さんのそういう所……僕は本当に好きです」  僕の方から宗吾さんに抱きついてしまった。 「お、おい。愛の告白は嬉しいが、あまりくっつくな。眠れなくなる!!」  **** 「ここか」 「あぁ」 「憲吾、先輩がどんな人か知らんが、素直になれよ」 「分かった」 「よーし! 行ってこい! ここで待ってるから」 「分かった!」  ホテルのロビーで、背中をポンッと押してもらった。  広樹は宗吾と同い年なのに、長男だからか力強いな。説得力もある。  だから私も学ぶところが多い。以前の私だったら、素直に言うことも聞けなかった。自分の決断最優先で、他人の意見に心を動かすのは時間の無駄だと考えていた。  だが……瑞樹くんと出会い、人の心に寄り添う彼が美智の心を生き返られてくれたのを知り、考えを改めたのだ。  人は自分とは違う。全く同じ考えの人なんていない。だから受け入れる。寄り添う。理解しあうことが大切なのだ。  一方的に相手の事情も汲まずに、切り捨てるなんて言語道断だったのだ。  素直になれば、心のゆとりが生まれ、緩んだ隙間からは、優しさが入ってくる。  芽生の幼い無垢な心、好きだ。  苦境を乗り越え生きてきた瑞樹くんの澄んだ心、学ぼう!  弟、宗吾のおおらかさ、自分に正直な所、認めよう。  母の寛大さ……尊敬しよう。  あのままの私だったら気づけなかった、その人らしさ。  では……憲吾、お前らしさってなんだ?  自問自答してしまう。  どんな人になりたかった?   どんな心を持ちたかった?  年を取ったって、人はまだまだ変わっていける。  後悔があるのなら、今から変わればいいのだ。 「先輩、こんな時間にすみません」 「どうした? 仕事で何かあったのか」 「いえ、個人的な頼みがあって」 「ん? とにかく入れ」 「あの時間がないんです」 「どうしたんだ? ちゃんと話せよ」  勇気を出せ。大切なことだ。 「実は妻が臨月で、先ほど連絡があって破水したので明日の朝から促進剤を使っての出産になりそうなんです。お願いです! 明日の朝までにできる限りやりますから、明日の早朝便で先に帰らせて下さいませんか」  頭を下げた。  美智のために……私のために、私たちの赤ん坊のために! 「え、そうだったのか。それは大変じゃないか。うーむ今すぐ帰してやりたい所だが、流石に俺だけでは、明日こなせないな」  ダメなのか……やはり明日は通常通り仕事をしないとならないのか。  赤ん坊がこの世に生まれてくる姿に、やはり立ち会えないのか。 「うーん、東京の事務所にいれば、いくらでも代わりがいるのに、すぐに帰してやれなくてごめんな。だが明日の朝までに出来る限りの仕事をしてくれるのなら、朝便で帰ってもいいぞ!」 「本当ですか。充分です! 頑張ります」 「ごめんな。俺は独身でよく分からないが、最大限寄り添ってみた……」 「感謝します」    ロビーに下りて事情を話すと、また広樹に引っぱられて外に出た。  ホテルは函館湾に面して建っていた。 「ほらよ」 「何だ?」 「飛行機のチケットだ」 「あ……」 「明日の早朝便」 「なんで……?」 「そうなると思ったから、速攻で確定させてきた!」 「ありがとう」 「それから、これ食べろよ」 「あ……」 「地元のハンバーガーだ。腹が空いては、頭も回らんだろう」  人情だ。  人の優しさが身にしみる……。 「それから奥さんに電話して、明日帰れるって言えよ」 「そうだな」  私がスマホを取り出すと…… 「ちょっと待てよ。カメラモードにして」 「ん?」 「ほら、あの月を撮って、それから飛行機のチケットも」 「ああ」 「メールで送ってあげるといいぜ。目に見える約束も心強い」 「分かった!」  **** 「美智……明日の朝便で帰れることになった」 「嘘……だって仕事でしょう?」 「先輩に頼んで、私だけ切り上げていいと言われた」 「憲吾さん、嬉しい! 嬉しいわ」 「写真を送ったんだ。見てくれ」 「うん……あっ!」  美しい月夜  そして美智の元に戻る約束のチケット 「嬉しい……私の病室からも、美しい月が見えるのよ」 「あぁ、あの子も見ているよ。天国にいったあの子も、ママ頑張れって」 「うん、うん……うん!」 「美智、美智、ガンバレ!」     

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