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湘南ハーモニー 19

「お、お兄ちゃん、お兄ちゃん」  明け方、芽生くんの声で目が覚めた。雨漏り? と思うほど、僕の頬にポタポタと生温い雫が落ちてくる。  芽生くんが泣いている? びっくりして、慌てて飛び起きた。 「どうしたの?」 「ど、どうしよう……」  うわーんと、芽生くんが僕の胸にしがみついてくる。  もしかして? 抱きしめてお尻のあたりをそっと確認すると、見事に濡れていた。 「そっか、おねしょしちゃったんだね」 「ど……どうしよう。お兄ちゃ……んの、だいじなお友だちのおうちなのに……ひっく、ぐすっ」  芽生くんにはまだ抜け切れないおねしょのクセがあって、普段は大丈夫だが、いつもと違う場所に来るとしてしまうんだ。 「大丈夫だよ。芽生くん」 「ぐすっ、もう一年生なのに……はずかしい」  グズグズの目で見上げてくるので、キュンっと胸の奥が切なくなってしまった。小学生にあがりどんどん芽生くんの世界が増えていくのが嬉しい反面、少し寂しかったんだ。だからこんな風に困った時に縋ってくれるのが、不謹慎だが嬉しかった。  障子をそっと開けると、もう日は昇っていた。 「菅野の部屋はどこだろう? 昨日聞いておけば良かった」  耳を澄ますと、階下からコトコトと物音がする。もう誰か起きているみたいだな。 宗吾さんを見ると大の字でグーグー眠っていたので、芽生くんを抱っこして、僕はそっと階段を下りた。 「お兄ちゃん、だっこ……いいの? ボク、きたないよ」 「そんなことないよ。大丈夫だよ。心配しないで」  初めての家で粗相してしまった芽生くんは、いつもの倍以上落ち込んでいるように見えた。こんな時は、僕がしっかり守ってあげたいんだよ。 「あら、もう起きたの?」 「おはようございます。あ……あの」  台所に立っていたのは、菅野のお母さんのようだ。昨日は商店街の会合で出掛けていたから、初対面だった。 「あ、あの……」  頑張れ! 自分を鼓舞した。 「ぼ、僕は良介くんの友人の葉山瑞樹です」 「えぇ、えぇ、聞いているわ。昨日は会えなくてごめんなさいね」  白い割烹着姿の女性は、菅野に似た優しい空気を纏っていた。 「とんでもないです。泊まらせて下さってありがとうございます」 「あなたが葉山くんなのね、良介がべた褒めしていた子なのね」 「え……えっと、あ、あの……実は……」 「お子さんが、お漏らししちゃった?」 「そうなんです。布団を汚して、すみません」  芽生くんもグズグズだったが、ちゃんと自分の言葉で挨拶出来た。 「おばさん、おはようございます。あの……おねしょして、ごめんなさい」 「いいのよ。子供にはよくある事だわ。それにあのお布団は良介が子供の頃に使っていたものだから、おねしょが染み込んでいるわよ。あの子ったら小学校三年生までしていたし」 「そ、そうなんですか」  そこにドタバタと菅野の声。 「わぁぁ~母さん、余計なこと言うなって! 芽生坊、大丈夫だからな。おねしょくらいで死んだりしないよ」 「う……かんのくん、ごめんなさい」 「あれは不可抗力だ。干しとけばいいって。それよりお尻が気持ち悪いよな。風呂で洗おう」 「うん、お兄ちゃん、僕、自分で洗ってくる」 芽生くんが菅野に連れられて風呂場に行ったので、台所には僕と菅野のお母さんだけになっていた。なんとなく気まずくて……どうしたものかと思案していると、向こうから話かけてくれた。 「葉山くん、いつも良介と仲良くしてくれてありがとう」 「いえ、こちらこそ本当にお世話になっています」 「ねぇ、少しお喋りしない?」 「はい」 「朝のお味噌汁は美味しいわよ」  しらすとわかめの味噌汁を出してもらった。 「とっても美味しいです」 「よかったわ。あの……良介はちゃんと仕事をしている? 実は、私達には縁の無い会社に就職を決めて来て勝手に一人暮らしまでし始めて心配しているのよ。たまに帰って来て店の手伝いもしてくれるけれども自分のことは話さないから」 「良介くんは、会社ではとても頼り甲斐のある存在です。僕も何度も助けられました」 「そうなのね。ちゃんとやっているのね。よかったわ」  安堵の溜め息? そういえば僕は菅野のプライベートを殆ど知らないことに気が付いた。宗吾さんは女性と付き合ったことがないのではと言っていたが、本当にそうだろうか。 「実はね……初対面のあなたに話していいものか迷ったんだけど聞いてくれるかしら」 「はい、僕でよければ」 「良介は、大学時代に付き合っていた女の子を亡くしているの」 「えっ……」 「私も何度か会ったことあるんだけれども、とても愛らしい可愛い子だったわ。その子はフローリストを目指していたのよ。でも若い子の病は、本当にあっという間に進行して、残念なことに」 「そ、そんなことが!」  これはショックだった。そんな大切なことを僕は何も知らなかったなんて。 「旅行代理店を目指していた良介が、急に花の世界を目指し出したのは彼女が亡くなってからだったの。もしかして彼女の遺志を受け継いでしまったのかしら? 自分を殺していないかと心配しているのよ」  いや……違う、それは違う! 菅野の花は、押しつけられたものではない。    菅野が咲かした花だ。  僕は菅野らしい大らかな作風に惚れているのだから、これは自信を持って断言出来る。 「お母さん、それは違います。菅野は心から花を愛しています。悲しみも呑み込んで、もっと高い所に辿り着いています」 「悲しみも呑み込んで……?」 「はい、僕もそうだから分かるんです。大丈夫です。彼は、ちゃんと彼の人生を生きています」 「本当に? そう言ってくれるの?」 「はい! 僕は彼の親友だから分かるんです」  胸を張って言えた……菅野の親友だと。   「それを聞いて、ホッとしたわ。そして、どうしてあなたが良介と仲良くなってくれたのか分かるわ。あなたの話方とても心に染みるの。これからもどうか仲良くして下さいね」  お母さんがペコリと頭を下げられたので、僕も丁寧にお辞儀をした。 「またいつでもいらっしゃい。可愛いお子さんと頼もしい人とね」 「あ……はい」  お母さんはにっこり笑って、こう告げてくれた。 「この世ではね、愛する人と一緒にいられるのが一番よ。幸せになってね。もっともっと」  あぁ……涙が滲んでしまうよ。母親と同じ年代の女性に、僕のこの生き方を肯定してもらえた喜び。天国の母さん……もしも生きていたらきっと同じ事を言ってくれたような気がする。 「あの……芽生くんの様子を見て来ます」 「そうね。そろそろ皆、起きてくるわ。聞いてくれてありがとう」 「はい、話して下さってありがとうございます」  二階に上がるために扉を開けると、菅野が困惑した顔で立っていた。 「葉山……母さんが余計なこと言って、ごめんな」 「何を謝る? 素敵な話だったよ」 「うっ、葉山は優しすぎる」  菅野のこんな顔……見たことがない。目を赤くして、声を詰まらせていた。 「何を知っても、菅野は菅野だよ」 「ありがとう、悲しみを呑み込んで……って、すごく響いた」 「……僕もそうだから、分かるんだ」 「それが、俺が葉山に惹かれる理由だ。俺たちは、ずっと親友だ」 「うん、僕も菅野に惹かれる理由が分かったよ」 「うわっ、愛の告白みたいだぞ。それ以上はよせ~! みずきちゃん、宗吾さんに殺されるー!」  最後はおどけるのが、菅野らしい。菅野にも……間もなく新しい風が吹いて、新しい出逢いがやってくる。そんな予感に包まれているよ。  ずっと自分の人生を背負うことで精一杯だった僕は、いつの間にか人の心配をし、人に関心を持てるようになっていた。  生きているって、有り難いこと。  生きていくって、凄いこと。  生きているからこそ、悩んだり落ち込んだり……それでも楽しいことを探したくなり、幸せを両手を広げて抱きしめたくなる。  それでいい、それがいい。  そう思える、海風を浴びる決心の朝だった。 「宗吾さん、もう起きて下さい」 「ん……瑞樹ぃ……どこにも行くなよ」 「はい、僕はいつも傍にいます」 「よかった、ずっとだぞ」 「はい!」       

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