916 / 1644

降り積もるのは愛 8

「パパ、ボクもタマゴ、わってみたいなぁ」 「おっと、卵はダメだ。芽生は混ぜるところだけな」 「えー」  芽生が途端にしょんぼりする。  あぁもう……こんな時、瑞樹ならどう答えるだろうか。  もう小学生だし挑戦させてもいいのか。 「わかったよ。こっちのお皿に試しに割ってみろ」 「うん!」  芽生が真剣な顔で卵を机の角に当てて割るが、ぐしゃっと潰れて、大きな白い殻が白身に巻き込まれてしまった。 「わ……わわ、ごめんなさい」 「大丈夫だ。失敗して覚えていけばいい」 「うん!」 「いいか、卵は平らな場所で割るのがコツなんだよ。尖ったところに当てると、殻の破片が卵の中に入りやすいんだ」 「そうなんだね!」  俺も離婚するまで知らなかったよ。必死に動画を見ながら練習したんだ。  コンコンとノックするような音が響き、大きなヒビが入る。 「そうそう、その境目を両手の親指で広げてみろ」 「うん!」 「あとは殻をふたつに広げて、中身をそっと出して」 「よいしょっと」 「よし! 今度は成功だな」 「やったぁ~!」  トラの子芽生が、ぴょんぴょん跳ねて喜ぶ。  ははっ、トラじゃなくて兎みたいだな。  それにしても、卵ひとつでこんな笑顔になれるのなら、俺たちの日常には幸せの素が沢山転がっていることになるな。     卵と粉と牛乳を混ぜてバターを引いたフライパンでじっくり焼くと、次第に香ばしい香りが漂ってきた。踏み台にのぼって、その様子をじっと見つめる芽生もご機嫌だ。 「おいしそう~」 「ほら、もう焼けるぞ」 「あのね、お兄ちゃん、まだ起きないかな? ボクの作ったパンケーキをたべてもらいたいな」 「そうだな、次は焼くところもやってみるか」 「うん! あとね……お兄ちゃん……またトラさんになってくれるかな?」 「ん?」  心配そうに芽生が呟く。 「さっきお兄ちゃんのトラがね、ベッドの下にグシャグシャになっていたんだよ。あれじゃ……ベッドのおばけに吸い込まれちゃうよ~」 「はは……そうか、そうか」 「お兄ちゃん、いつもキレイにたたむのにヘンだよね。今、何を着てねむっているのかな? まさかスッポンポンじゃないよね?」 「お、おう、どうだろうな?」  おっと、子供の目線が低いことを忘れていたぜ!   昨日俺が剥ぎ取ったトラの着ぐるみの行方、さっきドアを開けた一瞬でちゃんと見ていたのか。芽生も小学生になったんだし、俺たちももう少し気をつけないとな。 「そうだ! ボク、お兄ちゃんのようすを見てくるよ。もしトラがきえていたらサンバくんを呼ばないと」  芽生がピョンっと踏み台から降り寝室に向かって走り出したので、慌てて追いかけた。  まずい! 瑞樹は、まだ裸だ!  しかも昨日かなり彼の身体にマーキングしちまった!  白い素肌に散らばる花弁を見たら、また怪我したと大騒ぎだ。 「芽生~ ストップ!」  そのタイミングで、寝室の扉が開いて瑞樹が登場した。  彼は気恥ずかしそうに目元を染めた、可愛いトラの姿になっていた。寝起きでぼんやりしていることもあり、色っぽいトラの出現に俺の心臓が高鳴った。  あぁぁ……ヤバイって。(この衣装はオールインワンで目立つんだ!) 「あー! お兄ちゃん、今日もトラさんだ!」 「芽生くん、宗吾さん、おはようございます。あの……寝坊しちゃって……すみません」 「疲れているんだから、もっと眠っていてもいいのに」 「いえ、美味しそうな匂いがしたので」 「お兄ちゃん、おなかすいてる?」  瑞樹が芽生と視線が合うようにしゃがみ込んで、ニコッと微笑む。 「うん、とても空いているよ」 「じゃあちょっと待ってね」 「あ……芽生くん、僕ね、その……トラの衣装が暑くて寝汗をかいたから、シャワー浴びてきてもいいかな?」 「あーだからぬいでいたんだね。わかった! じゃあ天井にとどくほどのパンケーキをやいておくよ」 「ふふ、楽しみだよ」  セーフ!!    瑞樹は芽生の相手が上手だと感心しつつ、俺も一緒にシャワーを浴びたくなった。俺たち、昨日かなり運動したもんな。君がいつになく積極的だったから、俺も止まらなかった。すごく良かったぜ! 「パパ、焦げくさいよ~、ん? あれれ?」  何故か芽生が俺のトラに顔を埋め、クンクンと鼻を鳴らす。 「どうした?」 「ふしぎだな~ お兄ちゃんからはパパの匂いがして、パパからはお兄ちゃんの匂いがするねぇ」 「え?」 「いいなぁ~ ボクも今日はいっしょがいい」 「お、おう!」  今日はトラの着ぐるみのまま、ゴロゴロと過ごそう!   ホテルメイドのおせちを肴に、昼からコタツでビールと日本酒を飲んで、コタツでゆっくりまったり……最高の寝正月だ。  正月休みは四日までだから、気持ちもゆったりだ。 **** 「北野さん、車借りていいですか。今日は外出してきます」 「潤、寝正月はやめて友達と会う気になったのか。それともまたお兄さんが遊びに来てくれるのか」 「実は急に函館から母が遊びに来てくれることになって」 「へぇ、良かったな。どこに行くんだ?」 「これを兄からもらったので」  北野さんに軽井沢プリンセスホテルのアフタヌーンティー・ペアチケットを見せた。 「これはスペシャルだな」 「はい!」 「おっと……潤、俺のジャケットを着て行くか」 「あ……そうか」  オレは相変わらず気が回らない。毛玉だらけのセーターを見て、急に恥ずかしくなった。 「北野さん、ぜひ貸して下さい」 「潤はお母さんにカッコイイところ見せたいのか」 「そうですよ」  意気揚々と答えると、北野さんが突然態度を変えた。 「じゃあ貸すのはやーめた」 「へ? 何でですか」  意図が読めない。  オレ、怒らすようなことしたか。   「軽井沢駅の向こうにはアウトレットがあるだろう。あそこでお母さんに着る物を見繕ってもらえ」 「え?」 「ほら、これは俺からのお年玉だ。正月特別手当だよ」 「そんな、悪いですよ」 「お前は……なんだか親戚の坊主みたいで放っておけないんだよ」  そんなわけで、俺は今、作業服のまま軽井沢駅に立っている。  去年の冬は、こうやって瑞樹達を出迎えたのが懐かしいな。  今年は、俺の母さんを待っている。  北野さんには「他人の借り物よりも、まずは今のお前のありのままの姿を見せて来い。それでたまには母親と買い物でもするといい」と言われてしまった。  参った、照れるぜ!  母さんと買い物なんて、そんなことした記憶がないから。  それでも久しぶりに母さんに会える。  そのことで胸がいっぱいだった。  俺は父親の顔を覚えていない。だから俺が思い浮かべる親は、母さんだ。そして兄貴と兄さんが父親がいない分、精一杯支えてくれた。  俺って今更気付いたが、一人で勝手に大きくなったわけじゃないんだな。  母を待ちながら、胸にじわじわと熱い思いが込み上げてきた。  母と兄貴に反抗し、瑞樹を苛めた過去は消えないが、やり直せることと、やり直してもいいことを、去年、瑞樹に教えてもらった。  母さんも兄貴も兄さんも、俺を幸せにしてくれた。  大好きだぜ!  やがて改札に、母さんの姿を捉えた。キョロキョロと辺りを見渡していて、なかなか俺に気付いてくれない。そういう所、おっとりした兄さんと似ているな。あぁもうっ、じっれったい。  オレはここにいる、ここだ!  無意識のうちに、周囲が驚く程の大声で母さんを呼んでいた。 「母さん! こっち! こっちだよ!」  

ともだちにシェアしよう!