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花明かりに導かれて 19
「いっくん。次は手洗いだぞ」
「でも……おてて……とどかないよぅ」
「よしっ!」
ヒョイと小さな身体を抱っこしてやると、いっくんは目を輝かせた。
「うわぁ、パパぁ、ちからもちさんだねぇ」
「そうか」
「うん、あ、おみず、つめたい」
「がんばれ! 石鹸をつけてゴシゴシしような」
「うん、いっくん、がんばる」
小さな手から石鹸の香りが漂うと、また兄さんを思い出した。
まだ5歳だった俺のこと、いつも甲斐甲斐しく面倒みてくれたよな。
上手に石鹸が使えなかったのを見ては、自分の手で泡立てて、その泡を分けてくれた。
(なんて、やさしいおにいちゃんなんだろう)
そう言ってあげればよかった。そう言いたかったのに。
意地っ張りなオレはいつも優しい言葉の代わりに、刺々しい言葉ばかり。
本当にごめんな。
「パパ、あわさん、ぶくぶくだね」
「あぁ、気持ちいいな」
アライグマの子供を抱っこしているようで、愛おしい気持ちが溢れてくる。
「じゃあママのところに戻るか」
降ろそうとすると、しがみついてきた。
「まだ……だっこがいい、だめ?」
「……今日は疲れちゃったよな。よーし特別だぞ」
「うん! でんしゃ、おりたら、ちゃんとあるくね」
ギュッとオレの腕を掴む、笑窪のある小さな手。
信頼されるってこういうことだと、いっくんがオレに触れてくれる度に思うよ。
「ママ、ただいま~」
「いっくん、おかえり」
「ママぁ」
オレの腕から、今度は菫さんの腕の中へ。
いっくんはそのままボスッとママの胸元に顔を静め、幸せそうに口角を上げた。
あぁ子供の親に抱かれて安心しきった表情って、いいな。
これって、兄さんの胸元で芽生くんが見せる笑顔を同じだ。
まさに、幸せのリレーだな。
そうか……こんな風にお父さんとお母さんで繋ぎ合って育てていくのか。
そんな世界は知らなかった。
オレの家は片親だったので、母さんの負担が大きかった。
母さんの力だけで、3人の息子を成人させてくれた。
親の立場になって分かることって、沢山あるよ。
感謝している、母さん――
それに気付かせてくれる菫さんといっくんにも、感謝している。
「潤くん、もうすっかりパパね」
「ありがとう。いっくんが慕ってくれるからだよ」
「いっくんが私より先にパパを見つけたもんね。私も負けていられないなぁ。潤くんのこともっともっと好きになるから、覚悟していてね」
菫さんが、長い睫毛を揺らしてウィンクしたので、心がトクンと跳ねた。
オレは今、オレが好きな人から、直球で愛してもらっているんだ。
「す、菫さん、それ……照れる」
「えへへ、私もちょっと照れる」
****
土曜日 野外撮影会当日
「みーくん、行くぞ」
「はい!」
僕の心は、まるで遠足に行くように浮き足立っていた。
「瑞樹、今日は楽しんで来いよ」
「はい。宗吾さんは芽生くんと公園ですね」
「あぁ、これ持って」
「お弁当と水筒まで、ありがとうございます」
「俺も芽生が学校から帰ってきたら、公園で出掛けて、外で弁当を食べようと思ってな」
「今度は一緒に行きたいです」
くまさんとの撮影会も大切なのに、心苦しい気持ちになってしまった。
「瑞樹、心配するな。大丈夫だよ。俺たちは毎日一緒に暮らしているんだ。たまには別行動の日もあるさ。君は、ただ、ここに戻って来てくれれば、それでいい」
宗吾さんの力強い後押しが、心地良い。
行く前に、宗吾さんに抱きしめてもらいたい。
その気持ちは、ぐっと我慢した。
すると、くまさんが
「みーくん、俺は後ろ向いているからな」
「え?」
「瑞樹、行っておいで」
宗吾さんにギュッと抱きしめられ、軽くキスされた。
「わっ」
「これで大丈夫だ。今日はいい日になるぞ!」
「あ、はい。あの……行ってきます」
ふぅ、ドキドキだ。
「みーくん、顔が赤いぞ」
くまさんにニヤニヤ笑われて、ますます赤くなってしまった。
撮影会は都心から電車で2時間ほどの、奥多摩の山の中で、東京に住みながら、ろくに遠出したことのない僕には未知の場所だった。
大きな滝や湖。
北海道のような雄大な景色だ。
先に到着していた林さんとくまさんが打ち合わせを始めたので、僕は大勢の受講者の中に、そっと混ざった。
「あれがnitayさんなんだ」
「えー! あのキタキツネの写真の?」
「私、ファンなんだ」
「おれも」
そんな話し声が聞えてくると、嬉しくなった。
くまさんがお父さんの遺志を引き継いでくれて、本当によかった。きっと天国のお父さんも、今のくまさんの姿、喜んでいるだろうな。
「それでは撮影会を始めます。皆さん、自分らしいスタイルでこの自然を切り取ってみて下さい。今日のゲスト講師はあのnitayさんです」
林さんの紹介に、くまさんは照れ臭そうな顔を浮かべていた。
「紹介にあずかりましたnitayです。アイヌ語で『森』を意味します。さぁ今から2時間、自由に撮影して下さい。その間、俺にあなたたちの撮影スタイルを見せてくれますか。撮影手法は千差万別。個性を見せて欲しい。俺の真似をするのではなく、個性を磨く手伝いをさせて欲しい」
さぁ始まる。皆、思い思いの場所に散らばっていく。
僕の個性……それは何だろう?
深呼吸して目を閉じて考えると、小さな白き花が浮かんだ。
そうだ、この地上に直接根付く花を撮ろう。
花と自然の共存を留めたい。
野山に咲く名も無き小さな花を主役にしよう。
夢中で花の撮影していると、くまさんがやってきた。
「みーくん、もっと腰を落とせ」
「あ、はい」
「もっとだ。地べたに這いつくばってみろ。服や皮膚が汚れるのを恐れるな」
「えっ」
「花の気持ちになれ。泥の中から芽を出す花の気持ちになることが大切だ」
「種がどうやって発芽するか。暗闇の中から光を求めて、泥まみれになっても這い出てくるんだよ」
「そうですね……あっ、そうか!」
僕は汚れるのが怖くて、今も、花を上からしか撮っていなかった。
花の気持ちになるには、花の目線になることが大切だ。
相手の気持ちになるには、相手と同じ視線になってみるのが近道だ。
人間関係でもそうだ。
一方通行の一定の視点だけでは、見えないこともある。
芽生くんと話すとき、意識して視線を揃えるためにしゃがむように、花と話す時もしゃがもう。腰を深く落として、自ら汚れてみよう!
「そうだ! その調子だ。ずっとアングルがよくなったぞ」
「はい」
没頭していく。
身体の血が騒ぎ出す。
僕の中に確かに流れる父の血を、母の血を感じ出す。
「お父さん、お母さん……そこにいるの?」
自然と口に出していた。
二人の姿に、また一歩近づけた気がしたから。
踏みしめる大地に、二人の足跡を感じたから。
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