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誓いの言葉 26

 東銀座、テーラー桐生。  シャッターを下ろすために外に出ると、遠くからバイクのエンジン音が聞えた。  暗い路地に眩しい光が届く。  蓮が帰って来た!  振り返ると、速度を落としたバイクが俺の前でキュッと停止した。  ヘルメットを取った蓮は、少し長めの前髪を掻き分け、ふっと微笑する。  その一連の動作に……我が弟ながらドキッと胸が高鳴る。  相変わらず細くて華奢なのに、黒豹のようにしなやかな男だ。 「お帰り、蓮」 「ただいま、兄さん」  少し汗ばんだ額に浮かぶ汗すらも美しい男だ。 「無事に届けてきたよ」 「菫ちゃん、元気だったか」 「……幸せそうだったよ」 「結婚式が間近だしな」 「……兄さん……」  蓮の言葉の先を読み、店のシャッターを素早く下ろし、地下に降りた。  Barミモザの開店まで、あと1時間。  蓮の娘の迎えまで、あと30分。 「蓮、今日はありがとうな」 「兄さんの役に立てて嬉しいよ」 「軽井沢までぶっ通しで往復なんて、疲れただろう、店に立てるか」 「ふっ……おれはタフだよ。こんなことも出来る位にね」  蓮が背伸びして、口づけしてくる。    熱く甘い弟の唇を、貪るように吸った。 **** 「潤、写真を送ってくれてありがとう!」 「兄さんのイメージ通りだったか」 「その上を行くよ。インスピレーションが湧いたし」 「何の?」 「お母さんのブーケに使う花のこと……実は迷っていたんだ」 「そうだったのか。言ってくれたら相談に乗ったのに」  電話の向こうの潤の声は、どこまでも穏やかで優しい。  傍にいっくんがいるようで、モゾモゾと動く音がした。 「パパぁ?」 「いっくん、ちょっと待ってな」 「だあれ?」 「パパのおにーちゃんだよ」 「みーくん? めーくんのパパぁ?」  まだ舌っ足らずのしゃべり方が可愛いな。  芽生くんも出会った頃こんなしゃべり方をしていたので、懐かしいよ。 「いっくん、もしもししたいなぁ」 「はは、挨拶してくれるのか」 「うん! いっくんちゃんとできるよ」  聞いている僕も、胸がポカポカになってくる。  潤……すっかりいいパパになって! 「兄さん、悪い、ちょっと話してもらえるか」 「もちろんだよ」 「もちもち、みーくんでしゅか」 「はい、みーくんですよ」  僕も口調を合わせるように優しく答えると、ぱぁと明るい空気を感じた。 「あのね、いっくん、パパとね、しろいおはなつくっているんだよ。おばあちゃんにあげるんだ!」 「写真を見たよ。とっても上手だね」 「えへへ」 「頑張ってね」 「うん! あのね、みーくん」 「なあに?」 「ありがと」 「え?」  どうしてお礼を言われたのか分からなくて、キョトンとしてしまった。 「何だろう?」 「あのね、パパのおにーちゃんで、ありがと」 「……いっくん」  参ったな。子供の何気ない一言にグッと来て、ほろりと泣いてしまいそうだ。  だからなのか……潤と出会ってからの日々に思いを馳せてしまった。  あぁそうか、潤とは……上手くいっていなかった時期の方がまだ長いんだな。  10歳で潤と出会い、僕が高校を卒業するまで一つ屋根の下で暮らした。あの頃は潤の存在が怖かった。苦手で話すのが苦しいと思ったこともあった。  だから家を出た。  上京してからは、積極的には帰省出来なかった。  あれは思春期の好奇心だったのか。ただただ……潤からの悪戯がエスカレートするのが怖くて怯えていたんだ。  そんな潤との蟠りが解けて今のように滑らかな関係になったのは、皮肉なことに、あの事件がきっかけだった。  あの事件は僕に生涯消えない傷痕を残したかもしれないが、その代わり潤と和解出来て、潤を受け入れられるようになった。また宗吾さんと芽生くんとの関係も一気に深まり、函館の実家との縁も強まった。  失ったものも多かったが、得たものの方が多いと思いたい。  僕を無理矢理手に入れようとしたあの人の顔は、もう朧気だ。  悔い改め……罪を償って謝罪していると風の便りで一度聞いたが、それ以上のことを知るのは避けた。  あの日、絶望の淵で見た光景は、まだ僕の心の奥底に潜んでいる。  だが今の……僕の日常は、こんなにも幸せで溢れている。  だから恨むことはやめた。  怒りや憎しみからは、何も生まれないから。  今、息をして……幸せを感じながら生きていることに感謝したい。   「みーくんとパパ、なかよししゃんだね」 「うん! そうだよ」    いっくんからのハートフルな言葉に、また涙が溢れそうになった。  いろいろあったが、僕は潤の兄になれてよかったよ。 「パパぁ、おはなしできたよ!」 「いっくん、えらかったな。もしもし兄さん?」  もう一度潤の声を聞くと、どこまでも愛おしく感じた。  潤は……僕の大切な弟だ。 「あ……あのね。僕は……潤の兄さんだよね?」 「当たり前だろ? オレの大事な兄さんだよ」 「……ありがとう。あ、そうだ……潤は白い薔薇を育てている?」 「あぁ職員用のプライベートガーデンで育てているよ。ちょうどいい頃合いだ」 「良かった! その薔薇でお母さんのブーケを作ってもいいかな?」 「えっ、本気で……オレの育てた薔薇で?」 「うん、潤が育てたのがいいな」  そう伝えると、電話の向こうの潤が声を詰まらせた。 「あーもうっ! 兄さんは、人を泣かす天才だ」 「え……じゅーん? もしかして……泣いているの?」 「嬉しいに決まってんだろ! 母さんの門出にオレの育てた花を使ってくれるなんて! しかも兄さんがブーケに束ねてくれるなんて最高だ。全部……オレの夢だった」    じゅーん……  潤の夢、憧れ。  そこにいつも僕がいるのが、今はとても嬉しいよ。 「潤、いい結婚式になるといいね。僕たちの大事なお母さんの門出なんだから」 「兄さん、三兄弟の力を合わせような!」 「うん!」  明るく強く力強い約束を、潤と交わした。  兄弟がいるっていいね。  頼もしいよ。  潤の存在が……今は、とてもね。

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