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光の庭にて 9

「ママぁー たいへん! たいへんさんだよ!」 「どうしたの? いっくん」 「あのね、ここのおなまえも、かえないと…ダメダメ!」 「あぁ、そうだったわ」  いっくんが息を切らせて、真っ赤になってふぅふぅ言ってる。    小さな子供って何でも全力投球で可愛い! 『やまなか いつき』    あ、そうか。保育園のバッグのネームタグ、まだ『山中』の姓のままだったのね。  結婚式の翌日、三人で役所に行って入籍し、『葉山 菫』と『葉山 樹』になったのよ。 「ママぁ、いっくんたち、パパとおなじでうれしいね」 「そうね。そうだ、いっくん、『はやま』って漢字で書くとこんな風に『葉山』って書くのよ。この『葉』という文字は、いっくんの大好きなはっぱさんのことよ」  マジックでメモ帳に書いてあげると、いっくんの瞳がキラキラと輝いた。 「ほんと? はっぱさんなの!」 「よかったわね。いっくんの名字は『はやま』になったのよ。まだ、みんな戸惑っているかもしれないけれども、じきに慣れるから我慢してね」  いっくんの頭を撫でながら説明すると、キョトンとした顔の後、小首を傾げた。   「ママ? がまんなんてしてないよ? だってすごくうれしいもん! いっくんね、おともだちに、おしえてあげているんだよ。はやまいつきだよって」 「えっ、そうだったの?」 「ママぁ、ママもうれしい?」 「嬉しいわ。毎日何だかほっとしているわ」 「よかったぁ」  いっくんが私の手の甲に、スリスリと可愛い仕草で頬ずりしてくれる。  これは、この子の癖なのかな?  大事なもの、大好きなものに頬ずりするの、昔から好きだったわよね。  息子のふっくらとした頬の弾力、子供らしい高めの体温を直に感じて、ますます幸せな気持ちが膨らんだ。 「いっくんとママ……今までがんばってきてよかったね」 「うん! パパにはやくあいたいね」 「そうね。あ、そろそろ保育園にいこうか」 「うん!」  いつも保育園に行くのを渋り寂しがっていた、いっくんはもういない。  今は明るく顔をあげて、張り切って歩いてくれる。 「いっくん、おはよう!」    門の前で、出迎えの先生が呼んでくれと、いっくんが急いで駆け寄った。 「せいせい、あのね……いっくんじゃなくて、『はやま』ってよんでね」 「くすっ、そうだったわね。じゃあ『はやまいつきくん』はどこですか」 「はーい! ここにいましゅ!」  いっくんが手を真っ直ぐに伸ばして、元気にお返事をする。  その晴れやかな笑顔に、その場にいる誰もが笑顔になった。 「いっくんは最近はとても明るくなってイキイキしていますよ。お母さん、ここまでよく頑張りましたね」 「あ……ありがとうございます」  どうしたのかしら?   今日は先生の優しさが身に染みるわ。   あぁ……素直になるって大事なのね。  世の中には、こんなにも優しさで溢れているのね。  私はずっと何を見ていたのかしら?    もう一人で頑張りすぎないし、意固地にならない。  優しさに触れるのを、躊躇わない。  人に素直に甘えられるのって、こんなに素敵なことなのね。  心のゆとりって、大切なのね。    私はずっと肩肘張っていたから、これからはもっとゆったり、のんびりおおらかに、今を楽しんでいきたいな。  息子と過ごす時間を、もっと大切にしたいな。  本当にこのタイミングで潤くんと出逢えた奇跡に、感謝している。 「先生、今日も樹をよろしくお願いします」 「ママ、いっくん、いいこにしてるね。いってらっしゃい」 「ママ行かないで……」といつも泣きべそをかいていたのに……成長したのね。  優しさや幸せは、人を甘やかすわけじゃないのね。  心を強くしてくれる―― ****  土曜日の朝。  天気予報通り、朝から土砂降りの雨だ。  雨粒が窓を伝い落ちる様子を、そっと指でなぞってみた。  すると子供部屋の扉が開き、小さな足音が聞こえてきた。  振り向けば、まだパジャマ姿で、寝ぐせの髪があちこち跳ねた芽生くんが笑っている。 「ふわぁぁ……おはよう、お兄ちゃん、今日のお天気は?」 「芽生くん、おはよう。今日はすごい雨だよ」 「わぁー じゃあボク、ながぐつとレインコート用意してくるね」    入れ違いで、宗吾さんも起きてくる。  同じくすごい寝ぐせで、まだ眠そうに目を擦っている。  ふふっ、やはり親子だな。  寝ぐせの方向まで一緒なので、思わずクスッと笑ってしまった。 「ん? 何かついているか」 「寝ぐせ……直してあげましょうか」 「あー 剛毛なんだよなぁ。昔から」 「乱れた宗吾さんは……」  言いかけると、宗吾さんと目が合った。  ニカッと笑って、近づいて来る。 「乱れた俺って、色っぽいか」 「……え? 違くて……えっと可愛いなって」 「ん? おいおい、俺はそんなキャラじゃないぞ」 「いえ、その……芽生くんと親子だなって、芽生くんの将来に思いを馳せてしまいました」 「芽生の将来か。その頃……俺は無事か」 「無事って?」 「髪だよ、髪! ちゃんとあるかな? それとも月影寺に弟子入りした方がよくなっているか」 「もっ、もう、朝からやめてくださいよ。変な想像しちゃいます」 「ははっ」    朝から他愛もない会話で笑顔の花が咲くのも、僕たち家族だからだ。  月影寺には一泊させてもらう予定なので、最低限の着替えを持って、早々に家を出た。 「楽しみだなぁ~ おやぶんもいるかな」 「おやぶん? あぁ……翠さんの息子さんだね」 「またカラオケするの? あそこのおうちはすごく広くてすごいよね」 「そうだね、由緒正しいお寺だからね」  新しいレインコートに長靴姿の芽生くんは、始終ご機嫌だ。   「お兄ちゃん、このレインコート、雨をはじくよ。ほらっ」  芽生くんが身体を揺すると、雨粒が軽快に転がっていった。 「本当だ。イマドキの撥水加工ってすごいんだね」 「あ……お兄ちゃん、濡れているよ」  身体の左側が、傘から落ちた雫で濡れていた。   「これ位大丈夫だよ」 「ダメだよー ぬれるとおカゼひいちゃうって、おばあちゃんがいっていたよ。パパぁ、タオルかして」 「うん?」  電車のホームで、芽生くんが背伸びしてタオルで僕の身体を一生懸命拭いてくれた。 「お兄ちゃん、寒くない?」  黄色いレインコートに包まれた芽生くんは、とても可愛らしくて溜まらなかった。 「ありがとう。大丈夫だよ」 「瑞樹、髪も濡れているぞ」 「あ……宗吾さん」  宗吾さんもタオルで拭いてくれる。  なんだか擽ったいな。 「パパは上ね。ボクは下をふくよ」 「そんな……もう大丈夫ですよ」 「駄目だ。大切な身体なんだ」 「そうだよ。お兄ちゃんは大事だよ」    通りがかりの人が目を細めて通り過ぎていく。  恥ずかしいけれども嬉しかったりもして……  こんなにも二人から大切にしてもらえて、また涙が出そうだ。  車内は雨のせいで湿度が高く空気も澱んでいたが、僕の心はどこまでも澄んでいた。  優しさに触れて、包まれて……生きている。 「次は北鎌倉だぞ」 「雨、まだ降っていますね」 「あぁ、芽生は大喜びだがな」  月影寺へ続く坂道にはは、紫陽花が両脇に植わっており、見頃だった。 「洋くんの言った通り、最高の景色ですね」 「あぁ」 「やっぱり紫陽花には雨が似合いますね」 「俺は雨はあまり好きじゃないが、紫陽花のためなら許せてしまうな」 「宗吾さん……」    宗吾さんの会話も穏やかで、芽生くんのレインコート姿も眩しくて、ただ目的地に向かって歩いているだけなのに、傘にあたる雨粒に連動するように、僕の心は躍っていた。 「そろそろ着くな」 「あ……山門が見えてきましたね」  ところが、車道から石段を見上げてギョッとした。 「お、お兄ちゃん、あそこに……てるてるぼうずのおばけがいるよ!」 「う、うん」  真っ白な巨大てるてる坊主が、階段を右往左往とうごめいていた。 「ン? 何だ、あれ?」 「そ、宗吾さんっ、怖いです」 「パパぁ、怖いよー」  思わず芽生くんと一緒に宗吾さんの背後に隠れると、てるてる坊主のおばけがグルッと振り向いた。 「ぎゃー!」 「キャー!」

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