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ひと月、離れて(with ポケットこもりん)23
「パパ、まにあう?」
「あぁ、きっと! いや必ず間に合わせる!」
瑞樹との電話は、ラブコールでなくSOSだった。
俺だからキャッチできる微かな信号を感じた。
これは絶対に見逃せないものだと、心が警鐘を鳴らしていた。
俺と芽生は大急ぎで出掛ける支度を調え、瑞樹のいる短期賃貸マンションへタクシーを飛ばした。
手紙を出すために、住所を聞いておいて良かった。
ピンポーン、ピンポーンとけたたましく呼び鈴を鳴らすと、中から上擦った声が途切れ途切れに聞こえた。
管野くんが「葉山、葉山!」を呼びかける声だ。
続いて、玄関が開く。
「えっ?」
何故か寺の小坊主、小森くんが出てきた。
「あぁ! 宗吾さんと芽生くん! 良かったです! これも仏様のお導きなんですね。 早く! 一刻も早く瑞樹くんの手を取ってあげて下さい。彼は過去という闇に落ちてしまったのです」
「あぁ、一体どうして……今日、何かあったんだな」
「はい! 実は管野くんが車に轢かれそうになったのを、目の当たりにしてしまって……」
「いつだ?」
「もう暗くなってからです」
「それだ!」
まずいな。
それは君にとって、とても辛い過去を思い出す入り口だったろう。
当時のことを多くは語らなかった瑞樹が、時折無意識に顔をしかめていたことがある。
対向車のライト、人工的な光が突然灯ること。
暗くなってからの事故すれすれの出来事が、どんなに君にダメージを与えてしまったのか。
靴を脱いで瑞樹の部屋に飛び込むと、管野くんが必死に瑞樹に呼びかけていた。
瑞樹は床に崩れ落ちて、意識を失っていた。
「瑞樹! しっかりしろ!」
「あ、宗吾さん! どうして……」
「瑞樹を迎えに来たんだ。明日驚かせるつもりだったが……さっきの電話で様子が変だったから駆けつけたんだ」
「助かります!」
痙攣するように震える唇。
言葉を紡ぎたくても出てこないように、喉を押さえて藻掻いていた。
呼吸が変だ。
顔色がどんどん蒼白になっていく。
「しっかりしろ! 瑞樹! 俺だ!」
キツく閉じた目からは、大粒の涙が流れている。
幼子のように丸まって、防御の姿勢を取っていた。
これは……間違いなくフラッシュバックだ。
強いトラウマ体験。つまり心的外傷を受けた場合、後になってその記憶が、突然、鮮明に思い出されたり、同様に夢に見たりする現象が起きているのだ。
過去の記憶が、今の君を苛んでいるなんて。
記憶って奴は、本当に厄介だ。
やがて喘ぐように嗚咽を漏らしながら、瑞樹が手を必死に上に伸ばした。
まるでそのまま空に舞い上がってしまいそうだ。
その手を掴むのは俺と芽生だ。
どこにも行かせない!
逝かせない……!
「瑞樹、瑞樹……俺だ! 目を覚ませ!」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、ボクだよ」
「君を迎えにきたよ」
「お兄ちゃん、お迎えの時間だよ」
声は届く。
目覚めた君が見る世界は、俺たちのいる世界だ。
君が触れるのは、俺と芽生のあたたかい手だ。
ギュッと手を握りしめ、冷たい床から抱き上げて、抱きしめてやった。
震える幼子のような君を。
「宗吾さん……宗吾さん……宗吾さぁん……ぐすっ、ぐすっ」
皆、無事で誰ひとりとして瑞樹の前から消えていないことを伝えると、ようやく安堵したようで、俺の胸にことりと頭を預けてくれた。
「君を迎えにきたよ! 待ちきれなかった。今日からまたチーム滝沢はひとつになるんだ!」
一番伝えたかったことだ。
「嬉しい……本当に嬉しいです。僕を迎えにきて下さって……」
君が見てしまった過去の悪夢は、もう消し去ろう。
過去はもう過去でしかないのだから。
そこにいろ!
出てくるなよ!
頼む……もうこれ以上瑞樹を苦しめないでくれ。
祈りにも似た熱い感情が、胸に宿る。
「あ……芽生くん……おいで」
「お兄ちゃーん、お兄ちゃーん、しんどいの? びょうきだったの? ぐすっ しんぱいしたよ、こわかったよ」
芽生が一部始終を目の当たりにして、泣いた。
幼い心にも瑞樹があのまま旅立ってしまいそうだったのが、伝わったのだろうか。
心が壊れなくてよかった。
心が死ななくてよかった。
俺たちが前日から大阪入りしたのは、このためだったのか。
全ての出来事には理由があるとは、このことだ。
君の心を救うためにやって来た。
俺たちは何か大きなものに導かれて生きている。
「芽生くん……ありがとう、とても会いたかったよ」
瑞樹が芽生を抱きしめる。
その目から、安堵の涙が流れ落ちた。
「あのぅ……僕達は隣の部屋にいますので、家族水入らずでごゆっくりどうぞ」
管野と何故かここにいた小森くんが、扉を閉めて出て行った。
ようやく冷静になって見渡すと、仮住まいのマンションのインテリアは無機質だった。正直……とても心落ち着けるような空間ではなかった。
こんな殺風景な場所で、君は一ヶ月頑張ってきたのか。
枕元に置かれた芽生のフェルト人形が唯一の癒やしだったのかもしれない。
事務所のような蛍光灯は消し、枕元の柔らかな光を放つ白熱灯をつけてやると、瑞樹の表情もぐっと和らいだ。
「こっちの方が落ち着くだろう」
「はい……夏のキャンプのランタンを思い出しますね」
「あれはたのしかったねぇ……あぁボク……ほっとしたらねむくなったよ」
「芽生くん、一緒に寝ようか」
「えっ、いいの? もうしんどくない?」
「うん、芽生くんと宗吾さんが来てくれたから、すごく安心したよ」
「よかったぁ。お兄ちゃん会いたかったよ。だっこぉ」
芽生もグズグズになって、瑞樹に抱きつく。
瑞樹はその重みを心から嬉しそうに抱きしめた。
「瑞樹……俺もいいか」
「もちろんです。あぁ……まさか1日早く会えるなんて嘘みたいです」
瑞樹が彼特有のはにかむような笑顔を浮かべているのを見て、俺もようやくホッとした。
シングルベッドに3人で眠るなんて無理だろうと思ったが、その日の俺たちはギュッと瑞樹にしがみつくように寄り添っていたので、持ちこたえた。
この先……どんなに過去が君を呼んでも、絶対に行かせない。
「瑞樹は俺たちの家族だ。絶対に、ここにいろ」
「……はい、そうします」
少し痩せてしまった君の身体を抱き寄せて、俺の心臓の音を聞かせてやる。
力強く脈打つ安定した音と、身体の温もりが、今の君への特効薬だ。
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