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実りの秋 3

 芽生くんの手を優しく握ると、おなじ加減でキュッと握り返してくれる。そんなことを繰り返しながら、僕たちは歩いた。 「あれ? お兄ちゃんの手、ちょっと、くたびれちゃったんだね」 「あ……ごめん。カサカサして痛いよね」  毎日屋外で土と花に触れ続けたので、流石に指先が荒れて、手の甲も乾燥もしてガサガサになっていた。  髪もだが、手先もボロボロだったな。   「ううん、いたくはないよ。がんばったんだね。あ! お兄ちゃん、あとでボクがクリームをぬってあげるからね」 「ありがとう」  以前、芽生くんが僕の手のお手入れをしてくれたのを思い出すと、柔らかな気持ちで満たされた。  僕の身体を気に掛けてくれる人の存在により、自分をもっと大切にしようと思えるようになった。  インターホンを押すとすぐに扉が開き、割烹着姿のお母さんに抱きしめられた。 「瑞樹っ、お帰りなさい」 「えっ……お母さん?」 「1ヶ月も一人で頑張って偉かったわね」 「あっ……はい」  久しぶりに瑞樹と呼び捨てにしてもらえて、嬉しい。  ここにも手放しで僕の帰宅を喜んでくれる家族がいる。  宗吾さんと芽生くんだけでなく、お母さんもいる。 「……お母さん、ただいま」 「よーく顔を見せて」  頬を包まれて、頭を撫でられた。  それから手も握られた。  幼子のようで恥ずかしいが、嬉しかった。 「まぁ……聞いてはいたけれども、残暑厳しい中、屋外で長時間過ごすのは過酷だったようね」 「心配かけてすみません。僕……その、ちょっと……外見がボロボロですよね」 「大丈夫よ。こっちにいらっしゃい」  手を引かれて家に入る。 「おばあちゃん、お兄ちゃんをキレイにしてくれるの?」 「め、芽生くん!」  いやもう……僕、男だから……綺麗というのは、少し照れ臭いよ。 「芽生、大丈夫よ。あなたのお兄ちゃんはおばあちゃんがピカピカにしてあげるわね。さぁうるさい宗吾が帰って来る前にしましょうね」 「え? 何をするんですか」  連れて行かれたのお風呂場。 「まずはお風呂に入りなさい」 「え?」    振り向くと、お母さんが割烹着の腕まくりをしてスポンジを持っていた。  ‼‼‼ 「いや、僕……そんな……こ……困ります」  身体をゴシゴシ洗われるのかと真っ赤になって俯くと、クスクスと笑われた。 「いやねぇ、流石に覗かないわよ。宗吾じゃあるまいし。シャンプーとコンディショナーはこれを使うのよ。ボディソープはこっちね。私の愛用品なんだけど、髪に栄養をたっぷり与えてくれるのよ」    渡さされたボトルには『椿油入り』と書かれていた。    「は、はい……」 「髪は念入りにね。トリートメントもするのよ」 「分かりました」 「あがったら教えてね」 「はい!」  お母さん、なんだか今日は宗吾さんみたいに押しが強い。でも……こんな風に多少強引に踏み込み気遣ってもらえるのは実の息子みたいで嬉しい。  あぁ……本当に宗吾さんのお母さんは、もう僕のお母さんだ。  お風呂からあがると、ご丁寧に着替えが用意されていた。 「お母さん、これ、着てもいいんですか」 「もちろんよ。お洗濯しておいたわ。宗吾のだから大きいけれども、いいわよね」 「あ、はい」 「着る前に、全身にボディクリームも塗ってね。今、芽生が手伝いにいくわ」 「はい」    バスタオルを腰に巻いて待つと、芽生くんが張り切った顔でやってきた。 「えっへん! お兄ちゃんのマッサージやさんがきたよー! 「ふふ、よろしくお願いします」  脱衣場にしゃがむと、とろっとしたクリームを背中に垂らされた。 「えっと、よく、のばすんだよね」 「うん」  小さな手のひらが背中を行き来する。一生懸命な動きが可愛い。 「すべすべしたきたねぇ」 「うんうん」 「手にもぬるよ」 「ありがとう」  真剣な顔でクリームを塗ってくれる芽生くんの顔を、見つめ続けた。 「お兄ちゃんを、もっともっとすべすべにするんだ!」 「うんうん」  僕はもう……幸せ過ぎて、目を細めて頷くだけ。  湯上がりの身体は湯冷めすることなく、どんどんポカポカになっていくよ。  それにしても、これが宗吾さんだったら、大変なことになっていただろうな。  そこで、勢いよく脱衣場の扉が開く。   「んー 俺を呼んだか」 「わっ!」 「パパぁー」 「そ、宗吾さん、びっくりしました。お帰りなさい。すみません。こんな格好で」  慌てて腰に巻いたバスタオルに手をあてると、笑われた。 「おぅ! すべすべにしてもらっている最中か」 「あ……もしかして……宗吾さんが……言って?」  宗吾さんが明るく笑う。 「うん、瑞樹が随分気にしていたからさ。だが俺は大雑把な男だからよく分からなくて母さんに相談したら、ここに連れてきなさいと。まぁそういう経緯だ」 「そうだったのですね。嬉しいです。少しささくれ立っていた心もすべすべです」 「良かったよ。しかし芽生はいい役をしてるなー なぁ俺もソレやりたい」 「だ、駄目ですってば……僕が……困ります」 「んーなんでだ? 瑞樹ぃ」 「も、もう……」  結局、宗吾さんは髪を乾かす役目を得た。芽生くんは夕食の手伝いに行ってしまったので、脱衣場には僕と宗吾さんだけだ。 「えっと、母さん曰く、ドライヤーの前に毛先に椿油を塗るんだってさ」 「よろしくお願いします」  温風が吹き抜けると、髪が空気を孕んでふわりと膨らんだ。 「瑞樹、俺のジャージぶかぶかだな」 「こ、これは特に襟ぐりが大きくて……」 「ははは、伸びたんだよ」  首筋も鎖骨もよく見える。  そこに宗吾さんがそっと唇をあててきた。  そのまま滑るように、頬や耳朶にも口づけをされた。 「あ……あの……」 「ちょっとだけ味見な」 「駄目です」 「美味しそうだ」 「もう……」  少しだけ触れあっていると玄関が開く音がしたので、慌ててクルーダウン。  またガラッと脱衣所の扉が開いたので、驚いた。 「わ! 兄さん」 「なんだ? 宗吾か。瑞樹くんはどこだ?」 「あ……憲吾さん、ここです」  宗吾さんの影になって見えなかったようなので、自ら挨拶すると憲吾さんが破顔した。 「瑞樹くんお帰り! 1ヶ月の出張、お疲れさん」 「ありがとうございます。あの……ただいま。無事に戻りました」 「その……コホン、これを君に……1ヶ月頑張ったご褒美だ」 「え?」  憲吾さんは照れ臭そうに紙袋を渡すと、スタスタと出て行ってしまった。 「瑞樹、あの兄さんから何をもらったんだ?」 「開けてみますね」  紙袋の中身は、あのR-Gray社のスキンケアブランドの物だった。  箱から取り出すと、茶色い小瓶に入ったラベンダーのヘアオイルだった。 「おぉ? 兄さんが……これを? やるな」 「これは英国製ですが、日本人の髪質に合わせて作られたものだと書いてありますね」 「へぇ、瑞樹にぴったりだな。香りもいいし、早速使ってみるか」 「はい……」  宗吾さんが手にオイルを垂らし、手の平で暖めてくれる。  その仕草は何かを思い出してしまうので、慌てて目を瞑った。  そこにふわりと広がるラベンダーの清涼な香り。  耳元で囁かれる。 「瑞樹、知っているか。ラベンダーって『洗う』という意味のラテン語が語源なんだってさ。なぁ『消す』じゃなくて『洗う』っていいよな。『消す』のは抹殺して切り離すことだが、『洗う』のは、疲れて乱れた心を洗い流し、落ち着きを取り戻してくれるってことだろう。人に負担が少ないよな」 「確かに……心の洗濯と言う言葉もありますよね。あの僕は元々ラベンダーの香りが大好きなんです」 「どうして?」 「そうですね……故郷の……北海道をイメージ出来るし、土にしっかり根を張って育つ草なので、ハーブらしい土臭さと力強さを感じるんです。厳しい土地でも育つ生命力の強さが……いいなって」 「君の言葉は、いつも綺麗だ」  宗吾さんの手が首筋に触れる度に、身体がピクンと反応しそうになり堪えた。 「可愛い瑞樹、意識してばかりで……早く君を抱きたくなる」 「え……」  そんなことを囁いておきながら、宗吾さんは素知らぬ顔でドライヤーをかけてくる。 「さぁ、これで君が今朝気にしていた悩みはなくなったか」  鏡に映った僕の髪は艶を取り戻し、身体もすべすべになっていた。  指先までしっとり潤っていた。 「宗吾さん……宗吾さんは……僕を泣かせる天才です」  小さな悩みをあっという間に洗ってくれる宗吾さんが好きだ、大好きだ。 「それは君がとても好きで、大切だからさ」 「ありがとうございます。今日も……僕は幸せです」         

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