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実りの秋 9

軽井沢。 本当に……オレと菫さんの赤ちゃんがやってきたのか。  事前の妊娠検査薬では陽性だったので可能性は高く、今日病院で心拍が確認できたら、間違いないと告白された。    それからずっと菫さんに教えてもらったことが、脳内でループしている。  駄目だな。  油断すると、上の空になってしまう。  こんな調子では仕事が手に着かないし、植物にも申し訳ない。    ならば、いっそ…… 「リーダー、すみません。今日の午後、二時間ほど中抜けしてもいいですか」 「珍しいな。どうした?」 「病院に行きたくて」 「どこか悪いのか」 「いえ……オレじゃなくて……妻に付き添ってやりたいんです」 「……もしかして、おめでたか」 「なっ、なんで分かるんですか」 「図星か。その挙動不審な感じには、私も心辺りがあるからな」  と言うわけで、オレは菫さんの職場までひた走った。  早退して病院に行く菫さんを、アウトレットモールの従業出入り口まで迎えに。 「え、潤くん……どうして?」 「やっぱり一緒に行こう! オレたちの赤ちゃんのことだ。放っておけないよ」 「……うん……うん、ありがとう。本当は少し……心細かったの」  菫さんが泣きそうな顔をする。    オレにだけ見せる心細い表情だ。    最近よく見せてくれるようになった。    菫さんは、お腹にいっくんがいる時にご主人を亡くし一人で産み育ててきたので、職場や保育園の人達からは、かなり気丈な女性だと思われているが、決して、そうじゃない。  菫さんも心の通った人間で、弱く脆い部分も沢山ある。    それをひた隠してきただけなのだと、オレは知っている。  オレが人の心に敏感になれたのは、全部兄さんのおかげだ。  兄さんも寂しさも弱さも、オレにはずっと見せなかった。  広樹兄さんには見せても、五歳年下のオレにはひた隠しにしていた。  幼いオレには、それは見破ることが出来なかった。  だから優しく綺麗な兄さんが本当に好きなくせに、沢山反発もした。大人になった兄さんを巻き込んであの大事件を起こすまで、オレは自分に甘かった。  人を見る目がなかったんだ。  病院の待合室でじっと待っていると、菫さんが笑顔で出てきたので、胸を撫で下ろした。 「潤くん、無事に心拍確認出来たわ。写真を見て」 「そ、そうなのか、本当に?」  まだ信じられないよ。  見せて貰ったエコーの写真には確かに小さな物体が…… 「これが胎芽よ。エコーで確認したら点滅していたので、心拍が確認できたの」 「そうなんだな、これがオレたちの子なのか」  まだ豆粒程度の赤ちゃん。  オレの子供なのかと思うと、感無量だ。 「今妊娠七週目で、まだ妊娠初期なので安静にしない駄目なの」 「あぁ、家のことも、いっくんのことも、どんどんオレに任せてくれ」 「潤くん……ありがとう。私、潤くんとの子供を授かって嬉しい」 「オレこそ、宿してくれてありがとう」  生まれてくる子は、いっくんとオレと菫さんとさらに固く結びつけてくれる、家族の絆になる。  結婚式をして夫となる覚悟をし、今度は父となる覚悟をする。  酒と煙草に溺れだらだら惰性で生きていた頃とは別物の人生を歩んでいる。    もちろんそれだけの責任感も使命感もあるが、なによりも多幸感がすごい! 「それでね……運動会前なのに、つわりが始まってしまったみたいなの。困ったな」 「なぁに大丈夫だよ。今年からはオレがいるんだ。全部まかせてくれ」 「潤くんって、すごく頼りになる。結婚してからますます」 「オレこそ、菫さんといっくんと過ごす日々が幸せだ」  ほっそりした手を繋いで、いっくんの保育園に向かった。  いつもより早いお迎えに、いっくんは大喜び。 「パパぁ、ママぁ-」  愛らしい顔でまっしぐらにオレに駆け寄るいっくんに、笑みが零れる。    そのまま高く抱き上げてやる。    天国のお父さんにも見えるように、高く高く!    お腹に授かった子が生まれるまで生きていられないと知った彼の無念に思いを馳せる。  オレは、あなたの遺したいっくんの笑顔を守る人であり続ける。  この先も、ずっとずっと。  それはオレの血を引く赤ん坊が生まれても、変わらぬこと。 「パパは仕事に戻らないといけないんだけど、家までいっしょに帰ろう」 「わぁぁ、うれしいよ。あのね……パパぁ、ママね……ちょっと……ぐあいわるかった? びょ……びょうき?」  いっくんはまだ三歳と小さいのに、とても敏感で聡い。 「病気じゃないよ。大丈夫だ。いいことがあったんだ」 「潤くん、いっくんには隠し事はしたくないから、ちゃんと話すね」 「あぁ」 「いっくん、あのね、ママのお腹に赤ちゃんがやってきたの。いっくんの妹か弟になる子よ。わかる?」  オレに抱っこされたいっくんが、キョトンと目を見開く。 「それってそれって……いっくん、もっともっとたのしくなるってこと?」 「そうよ。おうちにかえってきても、賑やかになるでしょうね」 「わぁぁ……いっくん、おにいちゃんになるの? めーくんみたいになれるの?」 「そうよ。でも、いっくんもママとパパの大事な子供よ」 「うれしい! うれしいよ」  兄弟に憧れていた、いっくん。  キャンプでも芽生坊と楽しそうだったもんな。  子供同士の世界も大切だ。  気が早いかもしれないが兄さんにも伝えたい。  オレが父になれるかもしれないことを、一刻も早く。  その晩、オレが電話するより先に、兄さんから電話があった。 「潤、元気にしてる?」 「兄さんは、あれから元気だった?」 「実はひと月も大阪に出向していたんだよ」 「え? そんなに離れて大丈夫だったのか。寂しかったよな」  兄さんに寄り添うように話し掛けると、兄さんは少し黙ってしまった。余計なこと言ったか。 「ごめん、余計なことを」 「え? あぁ……違うんだ。潤はよく気が付くようになったなって……うん、寂しくてちょっとまずかった」  兄さんも素直になった。  秘めたる心を見せてくれるようになった。 「今朝、兄さんとお母さんと話したせいか、潤の声も聞きたくなって」 「嬉しいよ……思い出してもらえるだけでも有り難いのに」 「いつだって潤は僕の心の中にいるよ。僕の大事な弟だからね」 「ありがとう……あのさ、兄さんに伝えたくて」 「なに?」 「実は……今日……病院に行って来たんだ」  また兄さんが押し黙ってしまった。 「え……まさか……潤、どこか……悪いのか」 「あ! え、違う違う! いいニュースだよ。兄さんにはいち早く伝えたくて、オレも電話しようと思っていたんだ」 「いいニュースって……もしかして」 「菫さんが妊娠したんだ」 「ほっ、本当なの?」 「あぁまだ心拍確認の段階だけど……」  兄さんの声が潤む。 「よかった……本当によかった。僕も嬉しいよ」 「ありがとう。そう言ってくれてホッとした」 「うん……自分のことのように嬉しくて、胸が一杯だ」    兄さんの感極まった声に、オレの方が泣きそうだ。 「兄さん、ありがとうな」 「それに、いっくんに兄弟が出来るのって素敵だね。きっと僕たちみたいに仲良くなるよ」  その言葉に、今度はオレの方が泣きそうだ。   「兄さん……ずっとごめん……そしていつもありがとう」    あぁ……オレの過去を塗り替えてくれるのは、いつだって兄さんの優しさだ。  オレも優しい人になりたい。  兄さんみたいに見かけではなく、本物の優しさを抱く人になりたい。  見返りなんか期待せずに、周りの人に謙虚に優しさを与えてくれる兄さん。  優しさを受け取った人は幸せになるし、与えた人も幸せになれる。  優しさは、向き合う相手と、ゆっくり育てていくものなのかもしれないな。 「パパぁ、みーくんとおしゃべりしたい」 「あぁ」 「もちもち、みーくんでしゅか」 「いっくん! 元気だったかな?」 「あい! げんきでしゅよ。あのね、あのね、いっくんもおにいちゃんになるんだって」 「うん、よかったね」 「えへへ。いっくんのおにーちゃんはめーくんで、めーくんのおにーちゃんはみーくんでしょ?」 「そうだね、広く捉えれば、そういうことにもなるかな」 「わぁ~ みんながおにいちゃんっていいね!」 「そうだね、人に慕われるのって嬉しいよ」  優しい会話に和む夜。 「兄さん……オレの兄さんになってくれてありがとう」 「どうした? 急に」 「いや、言葉に出しておきたくて」 「それを言うなら僕もだよ。僕の弟になってくれて……ありがとう。じゅーん」  優しさには優しさを。  いつも丁寧に返していけば、オレもどんどん柔らかく優しい人になれそうだ。    

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