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実りの秋 41
「菫さん、もうお腹は痛くない?」
「……はい」
「良かったわ。妊娠中って、本当に色んなことがあるわよね」
「はい……おかあさんもでしたか」
「そうよ。ねぇ運動会が始まるまで、少しお喋りしましょうか」
菫さんは私の三男、潤のお嫁さん。
今日は思わぬハプニングだったけれども、ようやくゆっくり話す機会に恵まれたとも言えるのね。
後から考えると……起きた物事って……ちゃんと意味があるように感じるのから不思議よね。
「菫さんって本当に素敵な名前よね。あなたはその名前の通りの人だわ。菫の花は、小さく可憐な印象から弱い花というイメージを持っていたけれども、そうでではないと教えてくれたのは、私の亡くなった主人だったの。あのね……潤がお腹の中にいる時に、主人の身体が癌に蝕まれていることが発覚したのよ」
そう伝えると菫さんはハッと顔をあげて、真剣な眼差しで私を見つめた。
「少し語ってもいいかしら? 亡くなった主人の話に触れるけれども」
「はい、よかったら聞かせて下さい。私もおかあさんのことを、もっと知りたいです。実母に理解してもらえない部分も分かってくれるような気がして」
「それは私達が同じ境遇を味わったからね。あれは……潤がお腹にいる時だったわ。ようやく安定期に入り幸せな日々の最中に、主人が背中が痛いと倒れ、救急車で運ばれたのは」
……
主人は検査の結果、既にステージ4の癌に蝕まれていて、転移も認められ手遅れだった。
出産を控えて日に日にお腹が大きくなる身体で、病院に通ったの。
病気の深刻さとは裏腹に、夫婦の会話は穏やかだった。
「あなた、この子、連れてきちゃった」
「あぁ菫か……綺麗だな」
「道に出っ張っていて、踏まれそうだったから」
「咲子……菫は畑の脇や道端など、どんな環境にも負けずにきれいな花を咲かせる強さがあるんだよ。だから逆境に負けない逞しい人になるようにと想いを込めて、古来……人名にも多く使われてきたんだよ」
「そんな意味があったのね。あ……『すみれちゃん』って付けたら、可愛いわね。でもこの子は男の子なのよね」
「はは、そうだな。だが男の子の兄弟に憧れていたから嬉しいよ」
「そうなの? 名前どうしよう?」
「実は……ちょっと考えたんだ」
「どんな?」
入院中の主人は、びっしり名前を書き出したノートを見せてくれた。
「これだ、この漢字で『じゅん』はどうだ?」
「『潤滑』の『潤』ね」
「俺もそう思ったよ。 周囲を繋ぐ、潤いのある人となりますように。そして健康に恵まれた人生への願いを込めて」
「うっ……」
「本当はもうひとり子供を授かって、三兄弟を夢見ていたんだ。皆で協力して葉山生花店を切り盛りしてくれたら……とも」
泣いていけない。私が泣いては……
ずっと堪えていたものが決壊する。
「ううっ……うっ……」
「咲子、すまない」
私は主人の胸で、主人は私に寄り添って泣いた。
二人で泣いた。
「どうか……子供を頼む。そして咲子の幸せが見つかったら、真っ直ぐに進んでくれ」
……
「だから菫さんという名前とは縁があるのよ。ねぇ……あなたのこと……義理の娘じゃなくて、実の娘だと思って接してもいいかしら?」
「おかあさん、私も同じ事を言おうと思っていました。おかあさんは私と同じ……あの気持ちを知っているのですね。遺されていく者の苦しみを」
「えぇ……えぇ、知っているわ。だから事故で家族を失った瑞樹を放っておけなくて引き取ったの。三兄弟に主人が憧れていたし」
瑞樹を引き取ってから一段と責任が増して、過去を振り返る暇もなく夢中で生きてきたから、全て抜け落ちていたわ。
今日、菫さんとだから話せたこと。
「あ……運動会の写真が届きだしたわ。一緒に見ましょう」
「お、お母さん……お母さんに出逢えてよかったです。私のこの立場……どう説明していいのか」
「大丈夫、ぜーんぶ分かっているわ。今の私には勇大さんがいて、今のあなたには潤がいる。それがすべてよ」
「はい……はい……今、幸せで……こんなに大切にされて……いいんですか」
涙を流す菫さんを私は抱きしめてあげた。
「いいのよ。ここまでよくがんばったわね。すみれちゃん」
「え……すみれちゃんと?」
「娘が生まれたら……『すみれちゃん』と名付けたかったの……それは、あなたのことだったのね」
「お……おかあさん」
スマートフォンの画面一杯に、いっくんの笑顔が届く。
弾ける笑顔。
笑って、笑って……
天使のような笑顔を周囲に振りまいて。
「まぁ……潤はすっかりパパの顔をしているわ」
「潤くんは、本当にいいパパです。そしてカッコいいです」
「まぁ、ありがとう。あの子、確かにぐっとカッコよくなったわ」
「あの、私、大好きなんです」
「嬉しいわ……潤を好きになってくれてありがとう。潤の子供を宿してくれて……そしていっくんのパパにしてくれて……ありがとう」
私の心も温かくなってきた。
勇大さんに包まれて、毎日ポカポカなので、温まりやすいの。
「さっちゃん、楽しんでいるか」
「えぇ、特等席をありがとう」
「次の写真は最高傑作だぞ」
空っぽの箱を引っ張って、いっくんを抱き上げて、グラウンドを走る潤。
「まぁ、いっくんってば、何度も練習したのに……でも、こうなると思った」
「くすっ、今はとにかくパパといっしょがいいのね」
「いっくんが見つけてくれたパパだから、うれしそう。とにかく生まれた時から抱っこが大好きな子で、でも……私が腰を悪くしてから抱っこが全然出来なくなってしまって、いつも寂しそうな顔をしていたのに……潤くんと出逢ってから、本当に子供らしい笑顔を弾けさせてくれて……嬉しいです」
子供の笑顔は、親にとって宝物だわ。
「すみれちゃん、よかったわね」
「はい、おかあさん!」
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