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心をこめて 12

「よーし、いっくん、今からサッカーを教えるぞ!」 「パパぁ、いっくん、がんばるね」  ところが、いっくんは四歳になったとはいえ、まだ身体も同じ年頃の子よりも一回りも小さく、あどけない。  一体何をどうやって教えてやればいいのか、ろくに人に教えた経験もないので分からない。  一方、いっくんはボールを大事そうに抱えて、キラキラと瞳を輝かせている。このワクワクした気持ちを、何よりも大切にしてやりたいな。  よし! まずは純粋にサッカーボールに触れることを楽しもう!  兄さんが贈ってくれたサッカーボールは幼児用だったので、軽く柔らかい。これなら小さないっくんにも安全で痛くないだろう。 「いっくん、まずはボールを蹴ってみようか」 「いっくんが、けってもいいの?」 「あぁ、そこに置いて、足でこうやって蹴ってごらん」 「うん! そーれ!」  小さい足ではボールが少し動く程度だったが、いっくんはとにかく大喜びだ。 「お、ちゃんと当たったな」 「わぁぁ! いっくん、さっかーできたぁ」 「あぁ、すごいぞ」  小さな達成感を身体全体で感じる様子が可愛くて、目を細めた。 「パパも楽しくなってきたよ」 「いっくんも、しゅごくたのちい!」  いっくんがボールの周りを、ぐるぐると駆け回る。 「おんもであそぶのってたのしいねぇ」 「そうだな! これからはサッカーだけでじゃなく、パパとお外で沢山遊ぼう! よーし、おいかけっこしようか」 「うん!」  オレがボールを蹴りながら軽く走ると、いっくんが歓声をあげて追いかけてくる。息を弾ませて冬の野原を何周も駆け回っていると、いっくんもオレも鼻の頭が赤くなっていた。 「だいぶ遊んだな。少し冷えてきたな。今日はこの位にして帰ろうか」 「うん……あのね、パパぁ……このボールしゃん、おうちにつれてかえってもいいの?」 「あぁ」 「……どろんこしゃんだけど、いいの?」 「玄関にいっくんのボール置き場を作ってあげるよ」 「わぁ、ボールしゃん、おうちまで、いっちょだね」    いっくんはボールを大事そうに抱きかかえて、頬ずりしている。  ほっぺに泥がついたが、大人しいいっくんがグッと、わんぱくそうに見えて可愛かった。  こんなに大切にしてもらえるなんて、このボールは幸せだな。  柄ではないことを思ってしまった。いっくんといると、オレの脳内もどんどん柔らかくなっていくよ。  玄関を開けると、すみれが立っていた。 「ママぁ……どうちたの?」  いっくんが心配そうに、すみれを見上げた。  その表情は、少し心配そうだった。 「あ……どろんこ……ママ、ごめんなしゃい」  いっくんは自分の汚れを気にしていた。同時に外遊びの件を、我が儘を言ったと思ったのだろうか。  どこか、おどおどした調子になってしまった。  すみれと二人の時はいつも聞き分けよく大人しくしていたのが伺えて……泣けてしまうよ。  すみれが悪いんじゃない。  そうしないと成り立たなかったのだろう。  誰も責められないよ。  あぁ、参ったな。  かつての瑞樹兄さんを思い出しちまう。オレの代わりにいつも周りに謝って、口癖のように「すみません」とばかり言っていた兄さんの寂しい顔を。  たった10歳で見知らぬ家にやってきて、気ばかり遣って……  すみれといっくんのこれからは、そうじゃない。そうはしたくない。 「すみれ、いっくん、よく聞いてくれ。これからはオレがいるんだ。オレには今までの分も沢山甘えて欲しい。世間体なんて気にしないで、そうして欲しい!」  初めてかもしれない。オレの方から必死に切実に叫んでいた。 「……潤くん」 「パパぁ?」  いっくんはポカンとしていた。  すみれはハッとした表情の後、すぐにいっくんを抱きしめた。 「いっくん、ママはあなたがだーいすきよ。お外は楽しかった?」 「ママぁ~ ママぁ~ しゅき。いっくんもしゅきだよぅ」  いっくんの小さな手が、すみれの背中にそっと回される。 「パパとサッカーできてよかったね」 「うん! しゅごく……しゅごく、たのちかった!」 「よかったね! これからはパパがいるから沢山お外遊びもしていいのよ。どろんこになっても大丈夫! 元気な証拠だわ!」  すみれが、いっくんのどろんこのほっぺを優しく撫でた。 「すみれには……ひとりで抱えてきた荷を全部下ろして欲しい」 「潤くん、ありがとう。私……まだどこかでいっくんを縛っていたみたい」 「……いいんだよ。ずっと頑張ってきたんだ。本当にここまでいっくんをこんなにいい子に育ててくれてありがとう」 「……潤くん……いつもそんな風に言ってくれるのね」 「当たり前だ。何度でも言うよ。いっくんはオレたちの子だ」  すみれとオレは、いっくんに降り注ぐ暖かい太陽の光になろう!   **** 「芽生くん、起きられそう?」 「ん……お兄ちゃん」 「もう一度、お熱を測ろうね」 「う……ん」  芽生くんは3時間ほど眠っていた。  額に手をあてると、まだ燃えるように熱かったので、やはり午後の診察で病院に行くべきだと決心した。芽生くんが眠っている間に宗吾さんに連絡して指示を仰ごうと思ったが、会議に入っているようで連絡が取れなかった。今は病院に行く方が先だ。後で結果を添えて連絡しようと思う。 「うーん、まだ38℃超えているね。やっぱり病院に行こうね」 「うん……行く、せんせいにみてもらうよ」 「よし、じゃあ汗を拭いて部屋着に着替えようね」 「……うん。おにいちゃん、おきがえさせて」  熱で少しぼんやりしているが少し眠ってすっきりしたようだ。  今なら連れて行ける。  夜、熱が上がる前にお医者さまに診てもらおう。  かかりつけの小児科には何度か一緒に行ったし、大丈夫だ。  保険証と一応母子手帳も持って芽生くんに水分を取らし、ダウンコートとマフラーと手袋でしっかり防寒し、外に出た。 「ゆっくり歩こうね」 「う……ん」  当日の予約は一杯だったので、待つのは覚悟の上だった。 「わぁ……すごい人だね」 「みんな、おかぜかなぁ」  やはり冬の小児科は想像よりずっと混んでいた。具合が悪いのは芽生くんだけじゃない。みんな辛そうだ。 「おにいちゃん……さっきから、おのど……いたい……」 「そうなんだね」 「つばのみこむのもいたいよ」  かわってあげたい……本当にそう思う。  いつもの笑顔が消えてしまった芽生くんが、心配で堪らないよ。  しっかりしろ、瑞樹。  深呼吸して、待合室で心を整えた。 「からだ……だるい……よぅ」 「芽生くん、お兄ちゃんのお膝を枕に寝ていていいよ」 「う……ん」  芽生くんが全力で僕を頼ってくれる。それが伝わって力になった。 「滝沢芽生くん、お待たせしました」  ようやく名前が呼ばれたのは、それから1時間も後だった。 「芽生くん、先生に診ていただこうね」 「う……ん」  40代後半の先生は、芽生くんを赤ちゃんの頃から診てくれているので、症状を伝えると、熱心に耳を傾けてくれた。 「なるほど……芽生くん舌を出して、あーん」 「うーん。病名をはっきりさせるためにも検査をしようね」 「けんさ? い……たい?」 「大丈夫だよ。保護者の方は、しっかりだっこしてあげてくださいね」 「おにいちゃん……こっちきてぇ」  芽生くんが必死に僕を呼ぶ。  芽生くんは注射や検査が苦手なんだ。 「うんうん、おにいちゃんがいるから、がんばろうね」 「う……ん」  喉と鼻の奥の粘膜を取られ、半泣き状態だ。 「ぐすっ」 「芽生くん、がんばったね」 「おにいちゃん……おにいちゃん」 「病名が分かったら、よく効くお薬も出るから早く良くなるよ」 「そう……なの?」 「帰りに好きなゼリーを買おうね」 「モモがいい……」 「うん、うん」  甘えていいよ、もっともっと……  こんな時こそ、全力で甘えて欲しい。  今は『ごめんね』も『ありがとう』も置いて、ただただ甘えておくれ。  それが僕の願いだよ。 「りんごも……ほしいな……」 「ゼリーなら食べられそうだね。どっちも買おう!」 「おにいちゃん、だいすき!」  心からの言葉に、じわりと心が温まる。 「はやくなおるといいなぁ……」 「明日もずっと一緒だから焦らなくていいよ」 「ほんと?」 「うん、だから、大丈夫だよ」  ここはリーダーのアドバイスに、素直に従おう。  僕は……ずっと病気になるのが怖かった。一人で眠っていると、また世の中にひとりぼっちになってしまったようで……孤独に押し潰されそうだった。  芽生くんにそんな寂しい思いはさせたくない。  検査結果は、インフルエンザは今のところ陰性で、溶連菌が陽性だった。  溶連菌の説明を受けて、なるほど症状とあてはまると納得出来た。  それに病名が分かって、少しホッとしたよ。  原因不明の高熱は怖いから…… 「お薬をしっかり飲んで眠ったら、ちゃんと治るからね」 「うん、なんかほっとした」 「うんうん、そうだね」  桃とリンゴのゼリーを買ってあげると、芽生くんがようやく少し笑ってくれた。  その笑顔に元気をもらった。  僕には、芽生くんのために出来る事がある。  だから、心をこめて看病するよ。        

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