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心をこめて 23

 病院を出て、一旦家に着替えに戻った。  玄関を開けると、カーテンが閉まったままなので暗かった。  こんな時間に帰宅することは、離婚してから一度もなかった。  ここは本当に俺の家なのか。  灯りの消えた部屋に、また気分が落ち込んでしまった。  なんとも言えない違和感を抱き、心が落ち着かなくなる。  大急ぎでスーツに着替えて子供部屋を覗くと、芽生が眠っていた形跡があって、胸が張り裂けそうになった。  しっかりしろ、宗吾。  いつもの調子はどうした?  これは、俺の弱点だ。  大切な人や愛しい人が苦難に遭うのが、大の苦手だ。    焦燥感にかられ家を飛び出し、通勤電車の中で、もう一度スマホ検索をしてみた。  『川崎病』って、なんだよ?  そんな病気知らなかった。  育児書に載っていた気がするが、他人事だと思って無関心だった。   丈から説明を受けた時は、まだ呆然として頭が回っていなかった。  なので医療サイトの説明に目を通した。   『川崎病は乳幼児に多い全身の血管に炎症が起こる疾患で、気をつけなくてはならないのは心臓に合併症を起こすことがある点です。心臓に血液を供給するための血管(冠動脈)に炎症を起こし血管が拡張し、こぶ(冠動脈瘤)を作ることがあり、冠動脈瘤が出来てしまうと心筋梗塞の危険性が上がります』  心筋梗塞……だって?  もしも後遺症が残ると、そんな恐ろしいことになるのか。  芽生は体を動かすのが大好きな健康的な明るい息子だ。  どうして……こんなことに突然なった?  どうしようもないことへの憤りを感じていると、瑞樹の穏やかな顔が浮かんだ。 「宗吾さん……宗吾さん、どうか心を静めて下さい。起きてしまったことは受け入れるしかないのです。そこから、どうしたら道が開けるかを考えましょう。僕たちが力を合わせて心を揃えて……芽生くんの光になって支えましょう!」  どん底を知っている君は、俺が動揺している間も冷静だった。  ごめんな……今日の俺、頼りなくてさ。  君だって怖いはずなのに毅然として、研ぎ澄まされた顔をしていた。  よしっ!   一刻も早く仕事を終わらせて、病院に駆けつけるぞ!  瑞樹、芽生、待っていてくれ!  頑張ってくる!  ****  宗吾さんを見送ると、広い待合室に僕一人になってしまった。  ぽつんと座っていると、無性に怖くなった。  だが俯かずに背筋を伸ばして、芽生くんがいる処置室を見つめ続けた。  今の僕にできる事は、君の傍にいることだ。  たとえ芽生くんから、僕が見えなくとも、すぐ傍にいることを感じて欲しい。    「お兄ちゃんはすぐ傍にいるよ」  気がつくと涙が頬を濡らしていたので、慌てて手の甲で拭った。  泣くな、瑞樹。  もっと強くなりたい。  もっと心を鍛えたいと思うのに、飛ばされそうになる。  膝の上に置いた手でギュッと膝頭を掴んで、必死に撥ねのけた。  やがて……誰かが僕の名を呼んでくれた。  誰……? 「瑞樹……」  愛情深く僕を呼んでくれたのは、宗吾さんのお母さんだった。  優しく促されて、僕は少しだけお母さんに甘えた。 「瑞樹、そうよ。一人で頑張り過ぎないで。あなたたちの手助けをしてくれる人は沢山いるの。だから甘えなさい」 「……はい、お母さん」  (甘えていいのよ、瑞樹)  その言葉は、ふんわりと降り積もる雪のようだった。 「お母さん……僕……」  強張っていた身体が、すっと解けていく。  (みーずき、あなたは光なのよ)  天上の世界から声が聞こえたような気がして、ハッとした。  亡き母が、僕に囁いてくれた言葉を思い出す。  ……  瑞樹の『瑞』には『宝物』という意味もあるのよ。宝物はキラキラ輝いて周囲を照らしてくれるでしょう。だから瑞樹……あなたはいつか誰かの大切な光になるのよ。そうなって欲しいわ。  …… 「お母さんのお陰で、また一つ大切な事を思い出せました」 「よかったわ。瑞樹は光なのよ……だから芽生を守ってあげてね」 「お母さん……」  それは今まさに僕が思い出した母の言葉です。 「はい……僕はそうなりたいです。亡き母とも約束したんです」 「そうなのね、それは心強いわ」   お母さんと話していると、看護師さんに呼ばれた。 「滝沢芽生くんのご家族の方、いらっしゃいますか」 「あ、はい!」 「点滴が軌道にのったので、今から病室へ移動します。一緒にいらして下さい」  僕とお母さんが立ち上がると、芽生くんがベッドに眠ったまま運ばれてきた。細い腕には太い点滴の針が刺さっており、痛々しかった。 「芽生くん……」 「芽生」  小さな身体で病気と必死に闘う芽生くんの姿に、胸を打たれた。 「お母さん、行きましょう。荷物は僕が持ちます」 「ありがとう」  実のところ病棟と入院というシチュエーションに、僕の胸は張り裂けそうだった。僕はこれまでの人生において2度入院したことがある。  最初は10歳の時。  あの事故で僕だけが生き残った。目立った外傷もなく意識もはっきりしていたが、両親と弟の惨状からか……入院して全身を隈なく検査された。それまで入院した経験はなかったので、何もかもが怖かった。見たことのない機械に囲まれ、声も発せられない程の恐怖に苛まれた。  二度目は……軽井沢だ。  今度は酷い外傷だった。無数の傷跡、特に手が酷かった。なんとかして逃げようと抗った痕を見つめて、暗いため息しか出てこなかった。  いずれにせよ、僕にとって入院は良くない思い出ばかりだ。 「瑞樹、大丈夫よ。怖くないわ、あなたは芽生の光なんだから」  お母さんが僕の異変にいち早く気付いて、背中をさすってくれた。 「ほら、もう一度深呼吸して」 「はい……」  小児病棟に到着すると、最近おたふく風邪が流行ったという理由で、後から入院する子は、部屋を隔離すると言われた。  個室は埋まっていたので、大部屋の窓際にぽつんと置かれたベッドに、芽生くんはひとり寝かされた。  6人部屋を一人で使うなんて、がらんとして寂しいな。 「今日は入院当日で大切な処置があったので、特別に付き添っていただきましたが、通常の面会時間は午後1時~午後8時です。時間は厳守して下さいね」 「あの、それは今日からですか」 「そうです」 「子供は……夜は一人なんですか」 「こちらの病院では夜間付き添いは認めていません。ご心配でしょうがご理解ください。しっかり見守りますので」 「あ……はい」    芽生くん、夜、ひとりぼっちだなんて心細いだろう。せめて起きている間は、誰かが常に傍にいてあげたい。だが僕も宗吾さんも仕事があるので、毎日休むわけにはいかない。夜はともかく日中はどうしたらいいのか。宗吾さんのお母さんだけに甘えて負担を強いるわけにはいかない。  考えあぐねていると、お母さんが助言してくれた。 「瑞樹、人手が足りないのなら呼べばいいのよ、あなたに甘えて欲しい人は、私以外にもいるのよ、私だけ独り占めできないわ」 「……お母さん……」 「さぁ、大沼のお母さんにお電話してご覧なさい。この前お喋りしたら、あなたたちに会いたそうだったわよ」  以前の僕だったら心配をかけてしまうからと、電話なんて到底出来なかった。でも今は大沼の両親にも相談してみようと思える。 「あ……瑞樹、芽生が起きそうよ」  芽生くんの睫毛が揺れて、それからぼんやりと目を覚ました。  僕は枕元に駆け寄り、慎重に話し掛けた。 「芽生くん、芽生くん……僕が分かる?」 「あ……お兄ちゃん……お兄ちゃんだぁ」  芽生くんの右手には、僕のハンドタオルがしっかり握られていた。 「そうだよ。お兄ちゃんだよ。ここにいるよ」 「ぐすっ……ぼくね、すっごく、がんばったよ」 「うん、うん、偉かったね」 「お兄ちゃん、すごく会いたかったよ」 「僕もだよ」  僕は芽生くんの手をそっと握った。  まだ熱っぽい小さな手。  僕の大切な芽生くんの手だ。 「あ……おばあちゃんだ」 「芽生、おばあちゃんもついているからね」 「うん、おばあちゃんもお兄ちゃんも、いてくれて……よかったぁ」  芽生くんが眩しそうに、僕たちを見つめた。 「あれ? お兄ちゃん、パパは……?」 「パパはね、今、頑張ってお仕事をしているんだ。夜には会えるよ」 「うん、わかった。それまではお兄ちゃんたちがいてくれるの?」 「もちろんだよ!」 「よかったぁ、そこにいてね。見えるところがいい……」 「うん、うん」  僕は光になろう。  芽生くんに明るい光を届ける人になろう。      

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