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心をこめて 22

 宗吾さんが、僕の肩を抱き寄せてくれた。  本当は、僕も怖い……怖くて堪らない。  だが、もっと怖いのは芽生くんの方だ。  小さい体で、今、懸命に病気と闘っている。  芽生くんのために僕が出来ることは、光を探すことだ。  幸せな光を探して、それで芽生くんを照らしてあげたい。 「瑞樹、俺たち……今のうちに体制を整えよう」 「はい、あの、僕は何をしたらいいですか」 「芽生が目覚めた時にいて欲しい。仕事を連日休むことになるが……可能か」 「リーダーに相談してみます。今日納期の仕事はないので、おそらく大丈夫かと。それより宗吾さんこそ、出張の報告などあるのでは?」 「俺も掛け合ってくる。せめて点滴注入の間は絶対に傍にいてやりたい。目覚めた時に、ちゃんと傍にいてやりたいんだ」 「はい! 僕も同じ気持ちです」  宗吾さんと僕の気持ち、ぴたりと合わさって同じ方向を向いている。  僕から、宗吾さんの手を握りしめた。いつもの宗吾さんの手とは思えない程、冷たかった。 「大丈夫です。宗吾さんは一人ではありません」 「瑞樹、君の存在がとても頼もしいよ」  それからお互い、会社に連絡をした。 「リーダー、おはようございます」 「葉山か、どうした? 何かあったのか」 「それが……子供の様子が夜中に急変して入院することになってしまって」 「なんだって? 何の病気なんだ?」  リーダーの声に緊張は走った。 「川崎病でした。それで今、治療中で、今日は付き添ってあげたいのですが」 「川崎病か……大変だな」 「知っていらっしゃるんですか」 「あぁ、息子の周りでも何人か……最初の治療が大変なんだよな。今日はなんとかしよう。だが、明日以降は納期があるからそうもいかないが……」 「分かりました。周りにもヘルプを求めます」 「悪いな! 俺も出来る限り協力する」 「心強いです」  力強い言葉が有り難かった。  電話を終えて宗吾さんを探すと、まだ通話中だった。 「ですがっ! うちが父子家庭なんで……それは無理です……そんな、あっ、ちょっと……」  スムーズにはいかなかったようで、苦悶の表情に胸が苦しくなった。  電話を終えた宗吾さんは、眉間に皺を寄せている。 「宗吾さん、仕事休めそうにないのですか」 「……すまない。出張の報告だけはしに来いと……容赦ないよな」 「まずは行ってきて下さい。僕は今日は待機出来ますので」 「……すまないが、俺が戻ってくるまで芽生を託せるか」 「……はい、もちろんです」    僕たちが深刻に話していると、看護師さんに呼ばれた。 「こちらのリストがお子さんの入院に必要なものです。夜までにご準備を」 「分かりました」  どうしよう? 誰か一人は待機しないといけないし、宗吾さんは一度出社しないと場が収まらない様子だし。 「宗吾さん、お母さんたちにヘルプを求めましょう」 「だが……心配かけることになる」 「遅かれ早かれ分かることですので、早く伝えた方がいいです。入院の荷物はお母さんに見繕ってもらいましょう……女性の方が、こういうことは……きっと」  今までの僕だったら、こんな提案は容易には出来なかった。誰かに心配をかけたくなくて、我慢の限界まで我慢していた。 「瑞樹の言う通りだな。君だってこれ以上仕事は休めないだろうし、俺も……こういう時……辛いな……」 「宗吾さん、今の僕たちに出来る最善の方法を探りましょう」  弱気になっている場合ではない。  僕の中には、何としてでも芽生くんを守り抜きたい。  強い気持ちが充満していた。 **** 「お母さん、今日は彩芽と児童館に行って来ますね。お昼はお友達の家に遊びに行ってきますね。帰りは夕方になります」 「いってらっしゃい、彩芽ちゃん、楽しんでいらっしゃい」 「ばーば、ばーば」 「可愛らしいわね」  憲吾を見送り、美智さんと彩芽を送り出すと、まだ朝の10時前だった。  あらいやだ。まだこんな時間なのね。  夕方まで何をして過ごそうかしら?  若い頃は家事に子育てにと大忙しで、30分でいいから一人の時間が欲しいと願ったものだけど……今は、あの頃が懐かしいわ。憲吾も宗吾も三歳まではよく病気をしたから時間差で看病に明け暮れたこともあったわ。一日座る暇もないほど、忙しい日が続いたわ。  それに比べて今は……  周りの友だちもあちこち体が悪くなって、めっきり会わなくなったわ。  あなたがもういないから、話し相手もいないわ。  芽生も小学生になって、おばあちゃん業も減ってしまって、暇を持て余すようになったわ。彩芽ちゃんにはお母さんがいるので、私の出番は少ないわ。  新聞を見開いて老眼鏡をかけた瞬間、電話が鳴ったの。  誰かしら? こんな朝に珍しいわね。 「もしもし?」 「母さん、俺だ」 「宗吾、どうしたの? こんな時間に」    切羽詰まった息子の声に、嫌な予感がしたわ。 「驚かないで聞いてくれ」 「どうしたの?」 「芽生が入院したんだ」 「何ですって?」  こういう時って、驚くよりシャンとするのよね。 「母さんは、川崎病って知っているか」 「お友達のお子さんが小さい時にかかったことがあったわ」 「そうか、なら話が早い。芽生が川崎病になってしまって、今治療中なんだ」 「そうなのね。よく気付けたわね」 「瑞樹が真夜中にやっぱり芽生の様子がおかしいから病院に行こうと言ってくれて……それで……」 「そうだったのね」  いつになく弱気な宗吾の声。 「宗吾、私に出来ることがあったら何でもするわ。芽生は大切な孫よ」 「母さん……ありがとう。頼っていいか」 「頼ってもらえて嬉しいわ」 「家の鍵を預けているよな。それで今から言う芽生の入院グッズを病院に届けてもらえるか」 「そんなのお安いご用よ」 「荷物が多いから、往復タクシーを使ってくれ」  「……分かったわ」  頼まれたものは、芽生のパジャマとスリッパ、洗面道具など簡単なものだった。私が転んだりしたら二次災害だから、慎重に慎重に。  焦る気持ちよりも、背筋がピシッと伸びて、まるで若い頃、宗吾や憲吾を抱えて病院に向かった時のようなしっかりした足取りだった。  久しぶりに誰もいない宗吾のマンションに入った。  離婚した当初、まだ三歳だった芽生の面倒をみたわ。 「どうちて、ママ……いないの?」 「どうちて、めい、おいてかれたの?」  答えに窮する質問ばかり、一日中浴びたこともあった。  夫婦の間のことだし……玲子さんの決断の意図も不明だった。  ただ……外野が何を言っても修復出来ないものだと悟ったから、気休めの言葉は出てこなかった。  まだたった三歳のあどけない孫のつぶらな瞳に、切なさが増したわ。  芽生を抱きしめて、乗り越えていくしかないことを伝えたの。 『芽生、頑張ったら、きっといいことあるわ、芽生はこんなにいい子なんですもの。芽生のことを沢山愛してくれる人に、きっと出会えるわ』  何故あの時そんなことを言えたのか……  それは宗吾が瑞樹くんと出会って……全てはここに通じる道だったのねと納得出来たわ。  病院に到着し処置室の前に行くと、瑞樹くんがぽつんと座っていた。  背筋を伸ばして前を見据えて……  出会った時は、悲しみに濡れた儚く折れそうな花のような男性だったのに……すっかり凜々しくなったのね。  あの日、スーツにコーヒーを浴びて泣きそうな顔をしていたのは、もう遠い昔ね。 「瑞樹……」 「あ、お母さん、来て下さったのですね」 「芽生は?」 「今、点滴治療を受けています。ショックやアナフィラキシー様症状も起きず安定しているので、もう少ししたら病室に移れるそうです。そうしたら会えます。今は処置室で一人で頑張っています」  私はそっと瑞樹くんの隣に座り、彼の背中を撫でてやったわ。 「そうなのね、瑞樹もひとりで頑張ったわね」 「あ……」 「さぁ私が来たから、少し深呼吸して」 「お母さん……」 「なあに?」 「ほっとしました」  コトンと甘えるようにもたれてくれて、心に花が咲くような心地だったわ。  私はもうおばあちゃんだけれど、時にはこんな風に頼ってもらいたいし、甘えてもらいたいの。 「芽生を守ってくれて有難う。宗吾を支えてくれて有難う。あの子、かなり動揺していたでしょう」 「え……どうして分かるんですか」 「宗吾は突発的なことに弱いの。仕事では大丈夫だけど、自分の大切な人に関わることでは、動揺してしまうのよ」  瑞樹が襲われた時も、入院した時も、後遺症が残るかもしれないと言われた時も、宗吾の心は震えていたわ。 「人には得手不得手があります」 「瑞樹……こういう時のあなたはとても頼もしいのね」 「僕がしっかりしないとって思ったら、自然と……」  寝不足よね、涙の跡もあるわ。  それでも瑞樹は凜と前を見つめていた。 「あなたでよかった。芽生を任せるの」 「お母さん……」 「何度でも言うわ。芽生はずっと待っていたのよ。あなたと出会う日を」 「そう……なんですか」 「そうよ」  あの寂しい日々で芽生が抱いた希望は、叶ったのね。  それを実感した。  待合室に明るい日差しが差し込んできた。  瑞樹、あなたも光なのよ。  希望の光なの。  それに気付いている?      

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