1303 / 1740
心をこめて 25
「滝沢さん、お電話です」
「ん?」
「ご自宅からですが」
こんな時間に職場にかけてくるなんて、まさか身内に何かあったのか。
「もしもしっ」
「あぁ憲吾、私よ。よかったわ、携帯にかけたけど出なかったので」
「気付かなくてすみません。母さん、どうしたんです? 何かありました?」
母さんから真っ昼間に会社に電話があったということから、美智か彩芽、それとも弟たち一家の誰かに何かあったと推測した。
受話器を握る手に力が入る。
「流石、弁護士さん察しがいいわね、実は芽生が『川崎病』で入院したのよ」
「『川崎病』?」
入院という言葉に少なからず動揺した。健康優良児の可愛い甥っ子が入院だなんて、よほどのことだ。
すぐに目の前のパソコンで、医療関係の信頼できる情報を探し、ざっと目で追いながら確認していく。
「どこの病院です? 容体は?」
母さんは落ち着いて一つ一つを簡潔に知らせてくれた。こういう時、やはり母は強しだな。
「宗吾たちはどうしてる?」
「それがね、宗吾は出張の報告があってどうしても休めなかったのよ。代わりに瑞樹が会社を休んで付き添ってくれているの」
宗吾は息子が入院したのに、会社を休めなかったのか。昔の私だったら、そんなの当たり前だと思っていた。裁判官をしていた頃は常に仕事優先で部下にも妻にも非情な男だった。だが今は、傍に付き添えない宗吾の苦しみが痛い程伝わってくる。
宗吾、さぞかし悔しかっただろう。
兄だから分かる、お前の悔しさ。
同時に仕事を休んで芽生に付き添ってくれる瑞樹への感謝の気持ちも湧いてきた。
お前達はお互いに協力し合っているんだな。
出来ない時は出来る人がやればいいと、素直に周囲を頼れるようになった。
「母さん、知らせてくれてありがとう。私も今日お見舞いに行きます」
電話を切った後、宗吾に連絡を試みた。
****
「滝沢さん、出張お疲れ様です」
「あぁ」
「早速ですが、支社から支給連絡が欲しいと」
「分かった」
今回の出張は初め任されたイベントの総責任者だった。だからイベントが終わったからといってすぐに業務から解放されるわけではない。まずは報告書を仕上げなくてはならない。不在にしていた分の通常の業務もあり、やることが山積みだ。
芽生、頑張っているか、俺も頑張っているよ。
一分一秒でも早く息子に会えるよう、仕事を一気に片付けるから、待っていてくれ。
「あれ? 滝沢さんって出張先から直接出社したんですか」
「?」
「朝から大きな鞄抱えて登場したので広島観光でも?」
「それどころでは、なかったよ」
鞄の中には、芽生に届けるものが沢山詰まっていた。
同僚にランチに誘われたが、仕事を一刻も早く片付けたくてコンビニのサンドイッチを片手にキーボードを打ちまくった。
すると昼休みが終ろうとする頃、スマホに兄さんから連絡があった。
「宗吾、芽生の入院の話を聞いたよ。急なことで大変だったな。そんな中、仕事を頑張っているんだな。お前も疲れているだろうに……」
何を言われるか緊張したが、真っ先に労ってもらえて有り難かった。
兄は俺の今の状況を、心から理解してくれている。
「兄さん、ありがとう」
「宗吾だって、芽生のもとに駆けつけたいよな」
「あぁ……だから仕事が終わったらすぐに駆けつける。今、全力で頑張っているよ」
「頑張れ! それにしてもまだ小さいのに入院なんて辛いよな。夜は親は付き添えるのか」
「それは……確認してなかった。だが駄目な場合に供えて、お気に入りのぬいぐるみを届けてやろうと思っている」
「お気に入りのぬいぐるみ? あぁ、あれか羊の……」
「そうだよ。それとクマだ。俺に似ているからと、俺の留守中に二人が可愛がっているぬいぐるみがあって」
「なるほど……分かった。私も後で顔を出すよ」
「兄さん、ありがとう」
電話を切って、何かを忘れているような気がした。
あぁ、そうだ! それだけでは足りないぞ。
宗吾に似たぬいぐるみ、芽生の羊、そう来たら瑞樹に似たぬいぐるみもあったら、芽生が喜ぶのではないか。
今日のスケジュールを確認すると、夕方少し余裕があった。
宗吾には買いに行く余裕はないだろうから、兄である私が動こう!
「すまない、夕方2時間ほど抜ける。この辺にぬいぐるみを売っている店はあるかな?」
「ぬいぐるみですか、それなら博品屋さんはどうでしょう?」
「なるほど」
仕事を抜けだし、銀座のおもちゃ屋に向かった。
「うさぎはどこだ?」
「え?」
鋭い口調に、若い店員さんの肩がビクッと震えた。
「あぁ……その、子供に買ってやりたくてな。うさぎのぬいぐるみはどこで売っていますか」
「それならば、5階です」
「ありがとう」
気をつけねば、つい仕事モードになってしまう。
うさぎ……うさぎ……うさぎは、どこだ?
真っ白がいい! ふわふわで毛並みのいい可憐な子だ。
瑞樹を彷彿するような、うさぎはいないか。
ぐるりと棚を吟味し、見つけた!
四つ葉を持った、優しい顔のうさぎを!
****
「じゃあ、私は母さんを送ってから、仕事に戻るよ」
「兄さん、ありがとう。助かったよ」
「お兄さん、ありがとうございます」
「おじさん、おばあちゃん、ありがとう」
「芽生、大変だけど、応援しているからな」
「うん」
病室には、僕たちだけになった。
ここが病院でなかったら普段の団欒の時間なのに、現実は厳しい。
芽生くんの細い腕には、大きな点滴の針が刺さっている。だがこの治療は後遺症を残さないために必要だ。
「お、芽生、もうすぐ点滴が終わりそうだぞ」
「ほんと?」
「あぁ、これが空っぽになりそうだ」
宗吾さんの言う通りだった。暫くすると医師と看護師さんが「そろそろ点滴が終りますね」と、ぞろぞろやってきて、芽生くんを診察してくれた。
「熱が結構下がってきていますね。効果が出ているようです。一旦ここで投与を終え、24時間他の治療を追加しないで川崎病の症状がなくなるかを観察します。但し熱が下がり切らなかったり、また出て来た場合は、1回の治療で効果が不十分な場合だったということで、2回目に入ります」
「分かりました」
効果が出ている。
その言葉にようやく一息つけた。
だがまだ予断は許されない。
「今日はゆっくり休んで下さいね」
「ありがとうございます」
宗吾さんと深々とお辞儀をした。
心をこめて――
「芽生くん、少し横になろうか」
「うん……あのね、お腹すいた」
「よかった。食欲が戻ってきたんだね」
「うん、すこし楽になったよ」
いいタイミングで、夕食が届いた。
芽生くんは、ようやく食事を受け付けられた。
「おかゆ、おいしい」
「よかった」
「良かったな」
昨夜宗吾さんの買って来てくれたお弁当も、食べる意欲はあったのにほとんど口に出来なかったので、お粥をおいしそうに食べてくれる様子に、ほっとした。
普段、当たり前にしていることに、涙が浮かんでしまう。
夕食を食べ終わると「体を拭いてあげて下さい」と暖かいおしぼりを渡されたので、優しく拭いてあげた。
「芽生、お気にいりのパジャマを持って来たぞ」
「わぁ~」
子供らしいキャラクター入りのパジャマに、芽生くんが笑ってくれた。
「枕に、いつものタオルをかけような」
「わぁ、おうちのタオルだ、ふかふかしているよ」
宗吾さん、大きな鞄の中に芽生くんが喜ぶものを沢山詰めてきてくれたのですね。どれもこれも僕たちの日常を感じるものだった。
「お兄ちゃん、このうさちゃん、だっこして」
「うん」
憲吾さんが買ってきてくれた真っ白なうさぎのぬいぐるみを抱きしめて、心から祈った。
どうか、どうか、芽生くんのひとりの夜を守って下さい。
怖い夢を見ませんように。
孤独を感じませんように。
「ボク……おなかいっぱいになったからかな、ねむたいよ」
「芽生、今のうちに寝ちゃうといい。パパと瑞樹が見守っていてあげるから」
「うん、そうだね……そうするよ……あしたもきてくれる?」
「もちろんだ。日中はおばあちゃんに頼んだが、夕方には駆けつけるからな」」
「うん……やくそくだよ。おいてかないで……」
「芽生くん、約束するよ。君を置いていかないよ」
「お兄ちゃん、おてて……」
芽生くんがそっと手を差し出したので、きゅっと握ってあげた。
「おやすみ、いい夢を見て」
「う……ん」
面会終了時間のアナウンスがかかる中、芽生くんはすやすやと寝息を立てだした。
「そろそろ帰らないとな……」
「夜中に起きたら、泣いてしまうかも」
「……寂しい思いをするだろうな。芽生を置いて帰るのが苦しいよ」
「僕もです」
宗吾さんと僕、気持ちは一つだ。
「芽生、いい夢を見るんだぞ」
「芽生くん、おやすみ」
君を残していくのが辛い。
辛いが、今は受け入れないといけないんだ。
必死に自分を奮い立たせて、病室を後にした。
こんなに悲しい夜がやってくるなんて。
でも、これは永遠の別れじゃない。
だから、僕と宗吾さんも上を見よう。
また三人で賑やかに和やかに過ごす日を取り戻すための一歩を、踏み出そう。
「瑞樹、帰ろう」
「はい、宗吾さん」
うさぎのぬいぐるみに抱きつくようにして眠っている芽生くんの寝顔は、穏やかだった。
すやすや、すやすや……
朝までぐっすり眠れますように。
夢で会えるかな?
そうしたら、僕は優しくふんわりと……抱っこしてあげるよ。
ともだちにシェアしよう!