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心をこめて 48
「ママ……ママぁ……どこ? メイ……しんどいよぅ」
「芽生! どうしたの? ママはここよ」
小さな芽生が熱を出して苦しんでいる夢を見て、ハッと飛び起きた。
背中には嫌な汗をかいていた。
一瞬自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。
目が慣れてくると、私の隣には娘の結が赤い顔をして苦しそうに目を閉じていた。
「可哀想に……ユイちゃん、まだお熱が下がらないのね」
おでこに貼っていた冷却シートが剥がれてしまっていたので、張り替えようとガウンを羽織りキッチンに向かうと、まだ空は暗かった。
そっか、まだ夜明け前なのね。
二歳になった娘が昨日から高熱で看病していたら、そのまま眠ってしまったみたい。
リビングのソファでは、ケイくんがブランケットに包まって眠っていた。
「あ……玲ちゃん、大丈夫? 結の熱、まだ下がらない?」
「うん、まだ高そう」
「そっか、玲ちゃんも看病大変だよね。オレ、変わるよ」
「ケイくんは明日も仕事でしょう。接客業なんだから体調に気をつけないと」
あれから私は親のすねをかじって開業したネイルサロンを閉めて、子育てに専念しているの。ケイくんは売れっ子美容師なので、すぐにネイルサロンも美容室として改装して繁盛しているので、経営は問題ないわ。
華やかな世界は好きよ。
でも、今は私を求める小さな手を握っていたいの。
この手を離してしまった芽生の分も、結の傍にいてあげたい。
こんな考えは身勝手で傲慢だということは、分かっている。
「ママぁ……ママ……どっこ?」
「ユイちゃん、起きちゃったのね。お水飲もうね」
「玲ちゃん、オレが用意するから結の傍にいてあげて」
「ありがとう」
さっきの夢は一体なんだったのかしら?
私はカーテンをそっと開き、窓の外を見つめた。
(……芽生、元気なのよね? 宗吾さんと瑞樹くんに愛情を注がれ、元気に明るく過ごしているわよね? 寒いけど、風邪、ひいてない? 小さい頃、芽生も今の結みたいに、よくお熱を出したわね)
高熱で苦しむ結が傍にいるせいか、いつもは思い出さないようにしている過去を遡ってしまう。
でも途中でやめた。
宗吾さんと約束したのよ。
お互いの今を大切にしよう。
出来るだけ干渉しないで、この先はやっていこうと。
芽生にとっても、私にとっても、結にとっても、それが最善だと思って、私の方からもお願いをしたわ。
「芽生のことは宗吾さんと瑞樹くんに全てを任せるわ」
結が生まれた今、前に進んでいかないといけない。
中途半端な口だしは余計なお世話よね。
だから、そう言ったのは私。
宗吾さんも私も難しい顔をしていた。
それにしても、さっきの夢が気になって、胸騒ぎがする。
でも干渉しないと言ったのは私よ。
今更よね。
それから数日後、もう一度夢を見たの。
今度は芽生が注射を嫌がって泣いている夢。
きっと……お昼間、結が病院で注射をしたからね。
……
「ママぁ、ちゅうしゃ……いや! こわい!」
「芽生、ママがだっこしてあげるから、がんばろう」
「うううっ」
……
男の子って、女の子よりずっと幼いのね。
結は注射も難なくクリアしたけど、芽生は毎回大変だったわね。
いろんな予防接種の度に、大泣きで大騒ぎ。
私はひとりで汗だくになっていたわ。
でも、可愛かったわ。
全身全霊で私をすがってくる小さな命。
心の底から愛おしかった。
なのに、私はこの手で芽生を置き去りにしたの。
あんなに私を慕ってくれていたのに、宗吾さんへの不満が爆発した途端、芽生への愛情も一時的に吹っ飛んでしまったの。
許して、許して――
冷静になるまで、三ヶ月近くかかったわ。
芽生は私に突然突き放されて、理解に苦しんだはずよ。
どんなに悲しかったか。
それなのに……私は自分の心を守ることに必死で、芽生のことを考える余裕がなくなっていたの。
「玲ちゃん、どうした?」
「ごめん、昔を思い出しちゃった」
「……芽生くんのこと?」
「ケイくん、ごめんね。結がいるのに」
「いいんだよ。隠される方がつらいよ」
「うん……」
その数日後、宗吾さんのお母さんを通じて、瑞樹くんから連絡があった。
やはり芽生に何かあったのね。
あれは虫の知らせだったの?
私は緊張した声で応答した。
芽生が川崎病?
なんで?
あれは三歳くらいまでの子供に多い病気よ。
芽生はもう八歳なのに……!
「芽生くん、口には出さないのですが、きっとお母さんに会いたいはずです。これは勝手な憶測ですが……玲子さんだって……きっと」
「……ありがとう。教えてくれて」
「あとは玲子さんの判断に任せます。どうか、よろしくお願いします」
控えめな瑞樹くんの口調。
何を強要するわけでもなく、坦々と事実を知らせてくれた。
きっと今、深々とお辞儀をしているのでしょうね。
そのまま切ろうとしたので、慌てて呼び止めた。
「待って! まだ切らないで」
「……はい?」
「ありがとう。芽生のこと……全部ありがとう」
「産みの母の愛情は……僕にとって……手の届かない……憧れなんです。出過ぎた真似をして申し訳ありません」
「謝らないで! 知らせてくれてありがとう」
あなたがしてくれたことは、私にとって有り難いことよ。
架け橋になっているのよ。
瑞樹くんは幸せの架け橋なのよ。
この言葉まで伝えきれなかった。
伝えにいかないと。
でも……
今更、芽生を捨てた母親がどんな顔をして行けば良いの?
頭でっかちな大人なのよ、私も宗吾さんも似た者同士だわ。
悩みに悩んで、私は数日後ようやくお母さんに電話をした。
「まぁ玲子さん、やっと聞いてくれたのね」
「お母さん、ごめんなさい。まだ間に合いますか」
「……今日退院するのよ」
「え!」
もう11時過ぎだった。
もう間に合わないと意気消沈する私に、お母さんが教えてくれた。
「芽生ね、優しい子なのよ。お世話になった先生や看護師さん、仲良くなった院内学級のお友達にきちんとご挨拶したいから、今日の午後退院するそうよ」
「あ、ありがとうございます。すぐに駆けつけます」
メイクなんかより、芽生に会いたい。
お洒落な洋服や歩き難いヒールなんて、不要だわ。
ジーンズにセーター、ダウンコートに、マフラーをぐるぐる巻きにして、ベビーカーを押して飛び出した。
「ユイちゃん、風邪治ってよかったね。芽生も治ったのよ」
お見舞いにいけなかったけれども、退院祝いに駆けつけられる。
あ、待って……宗吾さんが怒って近寄らせてくれないかも。
万が一の時のために、結の部屋に入り画用紙にメッセージを書いて、抱えて出掛けた。
車は使わない。
この時間は渋滞だし、自分の足で芽生に会いに行きたいから。
病院の中に入ろうとしたら、子供の面会は駄目だった。
宗吾さんの車を駐車場で探し出し、まだ退院していないことを確信したので、駐車場の出口で私は待つことにした。
寒さなんて気にならない。
芽生が元気そうに笑顔で「ママ!」と言ってくれて、ようやく心が落ち着いた。
一度だけと頼んで、ギュッと抱きしめた。
芽生はもう赤ちゃんじゃない。
幼児体型を抜け、少年へと成長しているのね。
でも、私にとってはいつまでも大切な子供よ。
頻繁には会えないけれども、芽生が許してくれるのなら、産みの母でいさせてね。
「ママにあえてほっとしたよ。ママも?」
「うん、元気なメイに会えてよかった」
「じゃあ、ボク、もう帰るね。みんな待ってるんだ。ボクのおうちに、パパとおにいちゃんと三人でかえれるの、うれしくて」
「よかったね、メイが幸せになってくれて嬉しいわ」
「ママもしあわせだよね? ユイちゃん、かわいいし!」
「ありがとう。メイ! メイ、ファイト!」
「ママもね!」
「うん」
応援しかできないけど、縁は切れてない。
宗吾さんと瑞樹くんは引き継いでくれた、芽生の子育て。
今の芽生を見れば、今どんなに愛され幸せなのか伝わって来る。
さぁ私も戻ろう。
私の場所に。
芽生、ママも頑張るね!
芽生の顔を見たら、元気が出たわ!
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