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幸せが集う場所 30
「では、宗吾さんは『般若心経』をどうぞ」
「うーん、これは難しそうだな」
「精神統一して無になれば、自然と筆が走っていくものですよ」
「だといいんだが」
翠さんの指導を受け、借りてきた猫のように大人しく写経をしていると、背後に人の気配を感じた。
この清廉な気を放つ男は……
「宗吾の文字は、飛び跳ねて元気一杯だな」
「丈!」
「写経中すまない。ここにいると聞いて」
「あの、翠さん、一旦中断してもいいですか」
「もちろん、そのためにいらしたのですから」
翠さんが筆を置くように促してくれた。
瑞樹も俺と連動するように居住いを正した。
二人で改まって、丈に対して正座で向き合った。
丈もそれを受けて、俺たちの前に座ってくれた。
今は丈ではなく『丈先生』と呼びたい。
「丈先生、芽生の入院に際してご尽力をありがとうございます。おかげで芽生の病気の正体にいち早く気付け、適切な処置を迅速に受ける事が出来ました」
瑞樹も続く。
「丈先生のおかげです。僕たち……また一緒に元気に明るく……暮らせています。あの時……夜中にも関わらず駆けつけて下さって……うっ……本当に、本当に……ありがとう……ございました」
瑞樹はあの晩のことを思い出して、肩を震わせていた。
俺はそっと薄い肩を抱き寄せて、耳元で「ありがとう」と囁いた。
あの日は緊迫した夜だった。
俺は楽観視して眠ってしまったが、瑞樹は何かがいつもと違うと察してくれた。だから俺にとって、瑞樹も命の恩人だ。丈先生に相談することを提案してくれたのも君だった。
咄嗟の判断が、功を奏した。
幼い芽生が一人で入院することになって、ひしひしと痛感したよ。
人は一人で生きているわけじゃない。
実家の母、兄一家、瑞樹のお父さんお母さん、広樹や潤たち、皆を巻き込み、皆に助けられ、なんとか乗り切った入院生活だった。
さまざまな気付きがあった2週間だった。
今まで当たり前のように過ごしていた日々は、誰かのお陰で成り立っていたのだ。
俺がこの世にいるのも奇跡。
芽生の父となれたのも奇跡。
瑞樹との出逢いもミラクルだ!
俺と瑞樹の間に芽生がやってきて、ちょこんと正座してハキハキと明るい声で、丈に話し出した。
「じょう先生、ありがとうございました。ボク……あの時がんばれたのは先生がはげましてくれたからです。信じることをおしえてくれました」
芽生の言葉は8歳とは思えない程、しっかりしていた。
伝えたいことがあると、こんなにも凜々しい顔をするんだな。
芽生、カッコいいぞ。
丈は、俺たちの言葉を神妙な面持ちで聞いていた。
「なるほど……そうか……そうだったのか。私が医師になったのは、この日のためでもあったのかもしれないな。真っ直ぐな道がまた見えたよ。宗吾と瑞樹くんと芽生くんが進むべき道が……あの瞬間、医師としてベストを尽くせて良かった。私に敬意を払ってくれてありがとう。さぁこの先は『丈』と気軽に接してくれないか。私は医師であるが、君たちの友人でもありたいんだ」
不器用な丈の精一杯の甘えが嬉しかった。
弱い心を見せてもらえると、信頼が生まれるんだな。
「丈……っ、ありがとうな!」
俺たちの会話を聞いていた翠さんが更に高みへと導いてくれる。
「何事も感謝から始まります。この世に生きていることに感謝、健康でいられることに感謝、困った時支えてくれる人にも感謝を。感謝からは感謝が生まれることを、ここに集う人は皆知っているので、月影寺の住職として、この上ない幸せです」
月影寺は不思議だ。
人に優しく慈愛で満ちあふれている。
過去の俺は、近しい人には特に甘えが出て、つい扱いを雑にしてしまっていた。あの時もっと気遣う心があれば……
だが……後悔はもうしない。
過去は変えられない。
その分、今を大切に――
今、ここにいる人と俺を好きになろう。
「人は……人を愛し、自分を愛し……思いやりの心を持って生きて行く……それが極楽への道です」
翠さんのお導きに、瑞樹と俺は頷き合って、畳の上で手を重ねた。
ここが好きだ。
この人が好きだ。
その想いを込めて――
そこに芽生も小さな手をのせてくれた。
「パパとお兄ちゃんがいるから、ボク、しあわせ」
「俺もだ」
「僕もだよ」
幸せが集う場所はここだ。
この温もりを生涯忘れない!
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