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白薔薇の祝福 24

「おじさん、あと一つでフォアボールだよ。ドキドキするね」 「芽生はもうすっかりルールを理解しているな」 「うん、ルールって大事なんだね。ボクはすきだな。だってルールがなかったら、ぐちゃぐちゃになっちゃうよね、まいごになっちゃうよ」 「そうだな」 「おじさん、ルールって、みんながいごこちよくいられるお約束なんだね」 「あぁ、いい表現だな。芽生の言葉はとてもいい」 「えへへ。おじさん、ほめすぎだよ。ボクのおうちではいつものことだよ?」  芽生の少し大人びた発言は、きっと瑞樹の影響なのだろう。  相手と自分がどうやったら居心地の良い距離を保ち、和やかに過ごせるか。  瑞樹はそういうことに長けている。  しかし見方を変えると、長けているというのは、その方面でかなり苦労したからなのでは? と心配もしてしまう。  瑞樹は幼い頃両親と弟を交通事故で一度に亡くし、親しい親戚に冷たくあしらわれ、葬儀に参列した遠い遠い親戚の葉山家に引き取られた。繊細な性格なのでシングルマザーの家庭環境、経済的な苦労を感じ取り、遠慮の塊になってしまったのも理解できる。  私は裁判官を経て弁護士となり、瑞樹のような境遇の人と接することも多いが、瑞樹は本当に素晴らしい人柄だと会う度に感心している。  謙虚でひたむき、清潔感のある彼のすべてが、私は大好きだ。  瑞樹から広がる幸せは、真の幸せだ。  私も瑞樹から学んだ。  ささやかな幸せのありがたみを。  健康な朝を迎え、深呼吸ができる。  日の光の浴びることができる。  気ままに散歩できる。  日常の小さな幸せを大切にしていくのは、一番身近な現実を謙虚に積み重ねていくことなのだろう。 「おじさん、おじさん! ヒットだよ! ボールが天井にすいこまれそう。あのね、ここってなんだか気球みたいだねぇ」 「気球か」 「うん! みんなのワクワクしたきもちでふくらんで、みんなの夢をのせているんだよ」 「あぁ、そうだな。おじさんのワクワクも芽生のワクワクも、生きていく力になるんだよ」 「おじさんの言葉って、かっこいいなぁ」 「そ、そうか」 『伯父馬鹿』という言葉はあるのだろうか。  私は芽生と出会えて幸せだ。  二人きりで出かけて、ゆっくり語り合って、そのことを強く実感した。 **** 「瑞樹、手をマッサージをしてやるよ」 「あ……あの」  宗吾さんが胸ポケットからチューブを取り出し、中身を絞り出して手の平にのせた。 「ん? まだ少し硬いな」  手に取った軟膏を、手の平で暖め出した。  ん……?  どこかで見た光景だな。  僕はその様子をぼんやり眺めいていた。  なんだっけ?   ほら、あれだ……あの時の、あの…… 「携帯用のワセリンだよ。雪也さんからもらったんだ」 「え? ワッ、ワセリンですか」 「ん? そうだけど」  まずい、まずい、変な想像するなと、心の中で叫んでしまった。 「ほら、手を貸して」 「あっ」  意識した途端、僕の身体は燃えるように熱くなってしまった。 「おー! 瑞樹の手、ポカポカだな。お湯に浸かっていたせいだな」  いやいや、違います。  それは僕がベッドシーンを思いだしたからです!  あなたの前で裸で仰向けになり、足を大きく開かされて受け入れる準備を……  なんて言えるはずもなく、僕は耳朶まで真っ赤にして俯くしかなかった。 「どうだ? 気持ちいいか」 「えっ、ええっと……」  あぁぁ……もう駄目だ。  くらくらしていると、雪也さんが冷たいグラスを頬にあててくれた。 「瑞樹くん、大丈夫ですか。少しクールダウンしないと」 「あ、ありがとうございます」 「宗吾さんにあげたものは役立ったようだね」 「雪也さん、ありがとうございます。ちょうどマッサージしてやりたかったので、助かりました」 「うんうん、よかったよかった。まだ沢山あるから家に持ち帰っていいよ」 「こんなに使い切れ……お! そうか! 絶対に使い切れます!」  あぁぁ、宗吾さんも気付いてしまった。 「うんうん、僕は耳年増だからね。かつて兄さまの恋路にも役立ったんだ」 「ほぅ」  宗吾さんが感心しながら、胸ポケットにチューブを戻した。  あんな所にしまったら、僕……目が釘付けになってしまうんですけど!  一人で百面相しているとスッと桂人さんがやってきて、一言。 「雪也さん、僭越ですが……多分もうお年の方が追い越しましたよ」  容赦ない一言に、雪也さんが苦笑する。 「参ったな。その通りだ。僕はいつまでもおとぎの国にいるから、何十年も前のことがつい昨日のように……ふふふ。確かにそうだね」 「雪也さん、さっきからとっても楽しそうね」  そこに日傘をさして現れたのは、白江さんだった。 「えっと……葉山さんだったわよね。ごめんなさい。立ち聞きしてしまって」 「あ、いえ」 「手の具合……怪我の後遺症かしら? 海里先生が生きていたら良かったのに……そうだわ、私の知り合いに優秀な外科医の先生がいらっしゃるの。よかったら紹介しましょうか」 「え?」    外科医といえば、僕の中では丈さんだ。  芽生くんの川崎病もいち早く発見してくれた人。  この手のことも相談するなら丈さんと決めていた。 「心配して下さってありがとうございます。実は……僕の知り合いにも外科医の方がいるので、聞いてみようと思っていました」 「まぁ、そうなのね。それなら安心だわ。一度診てもらった方がいいわ。あなたはまだとても若い。治せるのなら治した方が後々いいと思うわ。過去の柵から解き放たれるためにも……」  その言葉にドキッとした。  確かに手の傷を見る度にあの日の絶望を思いだしてしまうから、傷痕を消す方法があるのなら知りたい。 「そうそう、葉山さん、ワークショップをされるのですってね」 「あ、はい、白江さんも是非いらして下さい」 「そうね。孫を誘って伺うわ」 「お孫さんと仲睦まじいのですね。素敵です」 「ありがとう。ようやく巡り逢った孫なので可愛くて仕方がないの。あなたにも紹介するわね」 「楽しみにしています」  白江さんのお孫さんって、どんな人だろう?  会えるのが楽しみだな。  最近、僕は新しい出会いを怖がらなくなった。  僕の前に広がる道を歩んでいく。  そこで出逢う人との縁も、また大切に。

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