1494 / 1864

秋陽の中 2

 そろそろ登園時間よ。  保育園の門の前に立っていると、遠くにいっくんの姿が見えた。  今日もパパと手をつないでニコニコ笑顔。  その笑顔に、私はふいに涙が出そうになる。  いっくんは赤ちゃんの時から、ずっとこの保育園で預かっている男の子。  天使のように愛くるしく優しい顔立ちで、保育士さんの間でも『地上の天使』と密かに呼ばれているのよ。  でもね……いっくんの憂いを帯びた黒目がちの瞳で真っ直ぐ素直に見つめられると、胸がギュッと切なくなるの。  いっくんのお父さんは……いっくんがこの世に生まれる前に病気で亡くなってしまったそうで、お母さんが一人で育てているという情報は聞いていたので、精一杯保育園でもサポートした。  小柄で成長がゆっくりな赤ちゃんだったけれども、いっくんの成長ペースを尊重して温かく見守ってきたの。そんないっくんも3歳を過ぎると漸くおしゃべり出来るようになり、やっと自分の思いを伝えられるようになったの。  ただ、いっくんからの質問は返事に窮する切ないものだった。  いっくんと幾度となく交わした会話を思い出してしまう。 …… 「せんせ、いっくんのパパどこ?」 「え?」 「みんなにはいるのに……どちて、いっくんにはいないの?」 「ええっと……」 「いっくんのパパぁ、どこでしゅか」 「おそらにいるのよ」 「おそら? いつおそらからおりてきてくれるの? はやくあいたいよぅ」 「……」 ……  それ以上は答えようがなかった。  どうしたらいいのか、真剣に悩んでしまった。  次第にいっくんにお父さんが不在なことを周りのお友達も気付いてしまい、いっくんに直接聞くことも多くなったの。  あどけない子供同士、他意はない。素朴な疑問を投げかけただけなのに、とても残酷に感じたわ。  そんな中、いっくんの答えは一貫していた。 「ぜったいにあえるもん! いっくん、まってる」  でも時折……お友達の輪から外れ、園庭の隅っこで膝を抱えて、しくしくと泣いていた。 「きょうも……あえなかったよぅ」  運動会やお遊戯会などの行事で園内に皆のパパがやってくると、いっくんは一生懸命背伸びをしてパパを探していた。 「パパ、どこ? いっくんはここだよ」  その言葉が本当に切なくて……  保育士達は、皆、祈ったわ。  どうかいっくんにパパを――  いっくんをパパに会わせてあげて下さい。  みんなの必死の祈りが神様に届いたのかしら?  ある日、いっくんにパパがやってきたの。  でもね……お母さんが電撃的に再婚したと聞いた時、先生たちは大人だから手放しでは喜べず、いっくんをちゃんと愛してくれるのか密かに案じてしまったの。  連れ子が虐待されるケースも多いので警戒したけれども、それは杞憂だったわ。  いっくんのパパは、いっくんを心から愛してくれる素敵な人だった。  まだ若いのに父親になる覚悟や心構えがビシッと備わっていて、年齢よりずっと落ち着いて見えた。  とてもかっこ良くて逞しいパパは、いっくんのパパへの憧れがギュッと詰まっている人だった。  それ以来いっくんは、どんどん明るく元気になったわ。  いつも遊びの輪に入れず隅っこで、ひとり遊びをしていたのに、自分から「いーれーて」と大きな声でハキハキと言えるようになり、サッカーもどんどん上手になって、皆から一目置かれているわ。  いっくん、とても幸せになったのね。  いっくん、今、幸せなのね。  先生達はいっくんのことを、ずっとずっと見守っていくからね。 「せんせー おはようございましゅ」 「いっくん、おはよう」  いっくんのパパも快活に挨拶をしてくれる。気さくで感じがよい人だわ。 「おはようございます。今日も樹を宜しくお願いします。あれ? この花壇の花、ここだけ枯れていますね」 「そうなの。突然、立ち枯れてしまったの」  いっくんのパパは、その場でしゃがんで花の様子を見てくれたわ。そうそう、彼は軽井沢のイングリッシュローズガーデンの庭師さんだったわ。    出社前で既につなぎの作業服姿なので、汚れることも気にせず熱心にプランターの土の状態を確認してくれた。    葉っぱが大好きないっくんとぴったりよね。 「やっぱり……あの、これは立ち枯れ病です。立ち枯れ病はカビが原因で植物が感染する病気です。初期であれば生育不良を起こし、進行していくと根が腐り枯れてしまうんです。どうやら、ここは少し水はけは悪いようですね。お迎えの時に少し手を入れても?」 「まぁ助かります。流石ですね」  パパとのやりとりをいっくんがニコニコ笑顔で聞いていた。  はち切れそうな笑顔。 「ねぇねぇ、せんせー いっくんのパパ しゅごいかっこいいね」 「そうね。かっこいいわ、いっくんのパパは最高ね」 「えへへ、ありがとうございましゅ」 「まぁ、いいお返事ね」 「あのね、めーくんにならったの」  最近、いっくんの話題によく出てくる『めーくん』はパパのお兄さんの子供らしい。いっくんはいとこのお兄ちゃんも出来たのね。ますますよかった。  先生たちはいっくんの笑顔に幸せいっぱいもらっているわ。  もっともっと幸せになってね。  今までよく頑張りました!  これからは幸せな笑顔で、先生たちを和ませてね。 ****  管野と小森くんの旅行に関して好奇心旺盛過ぎたかな?  僕は今まで誰かのプライベートに足を突っ込むことはなかったのに、管野が大切な友達だからなのかな?    親身になりたい。 「管野、僕は資材置き場に寄ってから行くね」 「おぅ! 俺は朝一で納品チェックがあるから先に上がっているよ」 「了解!」  僕はそのまま地下の駐車場と直結している資材置き場に向かった。    今日は『お月見アレンジメント』のサンプルを作る日なので、依頼していた材料を受け取る予定だ。  資材置き場に到着すると、前が見えない程の大荷物を抱えてよろよろと歩いてくる人がいた。  危ないな……狭い通路、ぶつかったり転んだら大変だ。  この先は階段だし……  そう思った矢先に、ぐらりと荷物が傾いた。 「キャー!」 「危ない!」  僕はぱっと手を差し出した。  荷物ごとつんのめった身体を抱きしめ、事なきを得た。 「ありがとうございます」 「いえ、怪我はありませんか」 「は……はい!!」  今年の新入社員だろうか。女の子は顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。 「一緒に運びますね」 「え? いやいや……大丈夫です」 「でも怪我したら大変だ」 「あ、ありがとうございます」  荷物を持って一緒に歩くと、周囲からの視線が妙に痛かった。  なんだろう?  注目を浴びるのは今もやはり苦手なので、困ったな。  首を傾げていると、女の子が教えてくれた。 「あの……みんな葉山先輩を見つめているんです」 「え? 僕の名前を知って?」 「当たり前です!『ファンクラブ』だってあります。私……メンバーに殺されるかも」 「ええっと、そんなことは気にしないで下さい。僕は加々美花壇の一社員ですので」 「ふぁぁぁ~ 謙虚です。葉山先輩スマートでカッコいいです。あぁやっぱり噂通りの王子様ですね。あ、ここまでで大丈夫です。あ、ありがとうございました」  ビューンと勢いよく女の子は消えていった。  いつもは来ない部署の前にぽつんと残された僕は、急に恥ずかしくなってUターンした。  王子様キャラではないと思うんだけどな。  そこにトントンと肩を叩かれたので振り返るとリーダーだった。 「こんな場所に珍しいな。どうした?」 「あ、いえ……資材を取りに行こうと」 「よし、一緒に行こう」 「はい!」  資材は僕だけで持てるサイズだったので抱えると、リーダーが笑った。 「葉山は最近また一段と逞しくなったな」 「え? そうでしょうか。相変わらず筋肉がつかない身体でリーダーが羨ましいです」  リーダーの、ワイシャツの釦がはじけそうな胸板をちらっと見て……思わず呟いてしまった。僕の周りがガタイがいい人が多過ぎだ。  宗吾さんといい、流さんといい、管野だって僕よりは一回り大きいし……  うーん。 「そう拗ねるな。葉山は細身だが引き締まったいい身体だ。ところで普段どんな運動をしているんだ?」 「え? えっと……」  運動らしい運動といえば、夜な夜な宗吾さんと……  ピーッ!    この先は自粛だ。  僕は宗吾さんにはなりたくない‼ 「と、特に……ジムに通う時間はないし……していません」 「ははは、なるほど……じゃあ私生活が幸せなんだな」 「え、いや、その……ええっと」 「ははっ! 葉山はぐっと人間らしくなったな。喜怒哀楽しっかり出せるようになったな。人生が豊かになれば作品にも深みが出る。それでいい、そのまま進め」 「あ……はい」  何がどう変化したのか分からないが、断言出来ることがある。  生きてきて良かった。  出逢えて良かった。  明日が楽しみだ。  昔の僕は真逆だった。  宗吾さんと芽生くんと出会って、抱けた気持ちだ。 「葉山は自分を愛せるようになったな。今の自分を丸ごと受け入れられて良かったな。本当に良かった……」  ポンッと肩に手を置かれた。  リーダーは僕の過去の事件を含めて……全てを知っている人。  だからとても心強く温かい手だった。

ともだちにシェアしよう!