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秋色日和 15
食事を終えると、もう21時近かった。
「憲吾さん、ありがとうございます。あの、そろそろ帰ります」
「おじさん、ありがとう!」
「よし、私がマンションまで送ろう」
「ですが……」
「いや、子供だけで出歩くには遅い時間だ」
えっと、子供って僕も入っているのかな?
真顔で言われて、キョトンとしてしまった。
「ん? どうした? 変な顔をして」
「あの……僕、一応もう30歳ですが」
「あ! すまん、つい可愛くってな。年が離れた弟がいたら、こんな感じかと」
憲吾さんが顔をサッと赤くした。
その表情に一気に心が和んでいく。
「いえ、僕も芽生くんと同様に可愛がってもらえて嬉しいです。なんというか、役得でしょうか」
子供扱いされている気はしなかった。
愛情を注いでもらっていることが伝わってきたから。
「こんなにも優しく大切にしてもらえて、幸せです」
素直に嬉しい気持ちを伝えたかった。
感謝の気持ちは、言葉でしっかり伝えようと心がけているから。
もう後悔のないように生きたいから実践していくのみだ。
「実は今日は仕事だったんだ。ある痛ましい事件に関わっていて、いろいろ考えてしまってな」
帰り道、憲吾さんが静かに語り出す。
僕は芽生くんと手を繋ぎながら、憲吾さんの話に耳を傾けた。
「世の中には戦争や事件など、痛ましい現実が溢れているよな」
「そうですね。ニュースをつけると気が滅入ります」
「同感だ。私は彩芽の無垢な笑顔に日々触れているせいか、人は誰かを憎むために生まれてきたのではなく、誰かを幸せにするために生まれてきたのだと思いたくてな」
「はい。それは僕も同感です」
「ありがとう。そこで私達に出来ることは何かと考えた時、シンプルに困った人に手を差し伸べることや、思いやりの心を持ち寄ることが大切だと気付いたんのだ」
憲吾さんはすごい。
第一印象からどんどん変わっていく。
この年齢になって考えを変えるのは容易なことではないのに……
法律に携わる堅い仕事をされているが、物事をどこまでも柔らかく捉えている。
「やっぱり憲吾さんと宗吾さんはご兄弟ですね。二人が仲良くされると大きな輪が生まれるでしょうね」
「そうかな。ちょっと照れ臭いな」
憲吾さんは銀縁の眼鏡の端を摘まんで照れ臭そうにしていた。
優しいお兄さんだ。
宗吾さんの家族は皆、心があたたかい。
部屋に戻って、芽生くんをお風呂に入れた。
僕はその間、明日のお弁当の下ごしらえを。
鶏肉に下味をつけて、お米を研いでセットした。
「お兄ちゃん、まだ眠らないの?」
「今日はお昼寝をし過ぎちゃったから、パパが帰ってくるまで起きていてもいいかな?」
「わぁ、パパ、すごくよろこぶよ。お兄ちゃん、パパにやさしくしてくれてありがとう!」
芽生くんにペコッとお辞儀をされてびっくりした。
「芽生くん、僕の方こそだよ。芽生くんのパパには数え切れないほど助けてもらったし、優しくしてもらっているんだ」
「じゃあ、おたがいさまだね」
「随分難しい言葉を知っているんだね」
「おばあちゃんからおしえてもらったんだ。わるいなって思ったときに、『おたがいさま』って言うとほっこりするって」
「なるほど、お兄ちゃんも使ってみるね」
「うん! おやすみなさい」
「おやすみ」
『お互いさま』か。
うん、確かにいい言葉だね。
僕はなんでも申し訳ないと思ってしまうから、そんな時『お互い様」だと言ってもらえると心が軽くなるよ。
人はお互いに、頼り、頼られる存在でいられると、よい関係性を継続できそうだ。
芽生くんが眠った後、僕は山積みになっていた洗濯物を畳みながら、宗吾さんのことを想った。
きっと疲れて帰ってくるだろう。
相当キツい立場だったと思う。
僕には彼の仕事を手伝えないが、心の拠り所になりたい。
ここを……リビングの灯りを目指して、帰って来て下さいね。
カーテンはレースのカーテンだけにして、外に灯りを漏らした。
今日はどんなに遅くても、起きて待っています。
僕の元に帰って来て下さいね。
感謝の言葉を伝えたいです。
****
「参ったな。こんなに遅くなるなんて」
疲労困憊。
電車の吊り革に掴まるのがやっとの状態だ。
電車の窓硝子に映り込む姿は、かなりくたびれていた。
ネクタイを緩め、溜息を一つ。
「疲れた……」
休日の昼時に部下のミスに呼び出され、イベント会場では対応に追われ、その後は社に戻った。
上層部からは監督不行き届きだと怒られて、関係各所に頭を下げまくった。
一度怒り出すと、人って容赦ないよな。
芽生風に言えば『ちくちく言葉』のオンパレードだった。
怒濤の言葉の暴力に、流石の俺もコテンパだった。
広告代理店マンといえば聞こえはいいし、給料もいい方だとは思う。
だが、最近は神経がすり減ることばかりだ。
出世するのは楽ではないな。
その場に立って初めて責任の重さを痛感している。
責任を持って対応はしたが、開放された後の疲労感は半端ない。
明日は運動会だと言うのに、こんな調子で大丈夫か、俺。
溜息交じりに中目黒駅で下車し、とぼとぼと夜道を歩く。
もう起きてないよな。
明日は運動会だ。弁当作りもあるし、瑞樹も一緒に眠ってしまっただろう。
家にやっと帰れるのは嬉しいのに、それが少しだけ寂しい。
こんな繊細な感情を抱くなんて、俺も変わった。
どうして心はこんなに繊細なのか。
繊細だから、人と人は互いに思いやるのかもな。
思い切って見上げたマンションの俺の部屋。
そこに橙色の灯りがついているのを見えて、心が跳ねた。
もしかして、まだ起きていてくれるのか。
待っていてくれるのか。
そこから足取りが一気に軽くなる。
玄関の扉を開けると、俺の愛しい人が手を広げて抱きついてくれた。
「宗吾さん、お帰りなさい。お疲れ様です」
「瑞樹、まだ起きていてくれたのか」
「はい、待っていました。会いたくて」
「嬉しいよ」
素直な言葉の交換だ。
いいな、こういうの。
こういう言葉の使い方は好きだ。
「疲れたでしょう?」
「疲れた」
「肩を揉みますか。食事にしますか、あ、先にお風呂にしますか」
俺は君を抱き寄せて、可愛い言葉を紡ぐ唇にそっとキスをした。
「まずはこれがいい」
「ん……はい、僕もこれがいいです。宗吾さん、会いたかったです。帰ってきて下さってありがとうございます」
ふわりと抱きつかれ、花のような瑞樹の匂いにほっとした。
俺の家、俺の家族、俺の愛しい人。
ここが俺の居場所だ。
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