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秋色日和 16
マンションの玄関の前まで、瑞樹と芽生を送り届けた。
弟もそれを望んでいると思ったし、私もそうしてやりたかった。
「憲吾さん、あの、よかったら上がってお茶でもいかがですか」
「おじさん、ボクんちはココアがおすすめだよ」
「うーん、ありがたいお誘いだが、それは次の楽しみにしよう」
二人からの優しい誘いは丁重に断り、来た道を引き返した。
今日は気忙しい1日だった。
休日返上で対応したのは兄弟間のややっこしい相続争いの案件だった。
『弟が憎い。だから法の力を借りて二度と立ち上がれないようにしてやる』という情け容赦ない兄の言葉を何度も吐き捨てられ、仕事と割り切っているとはいえかなり堪えた。
仕事は無理矢理切り上げてみたが、燻った気持ちを上手く昇華出来ず、仏頂面で最寄駅に降り立ってしまった。
こんな顔で仕事を引き摺ったまま帰りたくなくて、家に電話をし帰宅が少し遅くなると伝えた。
美智が快く応じてくれたので、どこか落ち着いた喫茶店で珈琲でも飲んでクールダウンしようと歩き出すと、雑踏の中に立ち尽くす瑞樹を見つけた。
こんな時間に何をしているのか。
瑞樹の顔色は明らかに悪かった。芽生としっかり手を繋いでいるのに、とても不安そうだった。
何があったのかもしれない。
ところが……すぐに駆け寄るつもりが戸惑ってしまった。
私がしゃしゃり出ていいのか。また余計なことをしてしまうのでは?
そもそも役に立てるかも分からないのに。
こんな時、苦い過去の記憶が蘇ってしまう。
瑞樹は弟の同性の恋人で、私達の出会いは最悪で最低だった。
母が倒れたことに動揺し、君に八つ当たりし、蔑み、差別するような言葉を投げつけ、心ない言葉で思いっきり傷つけてしまった。
甥っ子の芽生から見たら、凶暴な大人にしか見えない浅はかな行動だった。
美智の仲裁がなかったら、今頃どうなっていたことか。
瑞樹は知れば知るほど、心洗われる人だった。
私の偏ったカチコチな心が、君の優しさに解けていく。
君がくれた優しさにどうお礼をしたらいいのか分からず、思いあまって母に相談すると、こんなアドバイスを受けた。
……
「憲吾、今までと違う何かを始めるのには、誰だって勇気がいるものよ」
「母さん、私は柄にもなく緊張しています。ですがやっぱり今更ですよね」
「何を言っているの? 行動する前に諦めてしまうの?」
「いや、諦めたくはないです」
「それでこそ憲吾ね。その気持ちを大切にして欲しいわ。今だから出来ることって、実は沢山あるのよ。さぁ時間がもったいないわ。始めるのなら今よ」
……
母の言葉にはパワーがあった。
そうか、今だから頑張れることがあるのか。
それって有り難いな。
年を取ったと悲観するのではなく、出来ることが増えたと考えると前向きな気持ちになれる。
よし! 深呼吸してから、踏み出した。
「瑞樹、芽生、どうした? 何か困っているのか」
瑞樹の抱える問題は、私に解決出来るものだった。
スーパー以外で鶏肉を買える場所に、心当たりがあったから。
商店街の裏手に精肉店があるのを、最近母の荷物持ちで買い物に一緒に出掛けるようになって知ったばかりだ。
しかもそこは私の小学校の同級生の店だった。
当時、学級委員長をしてインテリ風を吹かしていた私は勉強が出来る奴にしか興味を持たず、誰がどういう家の子だなんて知る必要もないと思っていた。だから母と訪れた精肉店で、思い出すのに時間がかかってしまった。向こうは「ケンちゃん」と親しみを込めて呼んでくれたのに。
3代目として店を切り盛りしている同級生の顔は、輝いて眩しかった。
その時の経験が生きた。
そんな訳で、今日は瑞樹と芽生の役に立てた。私の法律的知識ではなく日常の知識が役に立ったのが嬉しくて、帰り道は浮き足だってしまった。
人の役に立てるって嬉しいものだな。
もう皆、とっくに眠ってしまっただろうと静かに家に入ると、奥から美智の声がした。
「憲吾さん、お帰りなさい」
「美智、まだ起きていたのか」
「彩芽は寝ちゃったけど、私はあなたに会いたくて」
その言葉に胸が詰まりそうになった。
私に会いたくて?
私はそのような価値がある人間だろうか。
容赦なく損得で人を切り捨て情け容赦ないと言われたのは……そうだ、私だったのだ。どうして今日の仕事がこんなに疲れたのか理解できた。過去の私を見ているようで居たたまれなかったのだ。
「美智、ありがとう。瑞樹と芽生が困っていたので手伝ってきたんだ」
「まぁ、そうだったのね。憲吾さんに会えてほっとしていたでしょう」
「役に立てて良かったよ。そうだ、美智も覚えておくといい。運動会の前日はスーパーの鶏肉が売り切れることを」
「そうなの? わぁ、憲吾さんってやっぱり物知りなのね。素敵よ。耳寄りな情報、ちゃんとインプットしたわ」
美智に褒められ、嬉しくなった。
こんな風に私が嬉しくなる言葉を届けてくれる妻が好きだと、しみじみと思った。
****
「瑞樹、ありがとう、ありがとうな」
止まらないよ。
何度も君に唇を押しつけてしまう。
キスの合間に何度も感謝の気持ちを伝えた。
「宗吾さん……あっ……んっ……」
瑞樹は何も言わずに優しく微笑んで、俺からのキスを受け止めてくれた。
ただ君がいてくれるだけで、俺は幸せだ。
その後、瑞樹が熱々のボルシチスープを用意してくれた。
「これ、どこのだ? 美味しいな」
「実は憲吾さんからの差し入れです」
「兄さんが? 珍しいな」
そこから瑞樹が今日の一連の出来事を話してくれた。
俺が役に立たなかったことよりも、兄がそこまで瑞樹と芽生のために動いてくれたことが嬉しくて、すぐに電話をした。
「兄さん、今日はありがとう。すっかりお世話になって」
「なぁに、お互いさまだ。兄弟は力を合わせていくべきだしな」
「兄さん……」
「コホン……明日は母さんと一緒に運動会に行くから、さぁもう眠るよ」
照れ臭そうな兄の声に、こっちも照れ臭くなった。
「あぁ、じゃあまた明日」
電話を切ると、瑞樹が花のように可憐な笑顔を振りまいてくれた。
「宗吾さんと憲吾さんが仲良くしているのを見るのが、僕は本当に大好きです」
「ありがとう。ずっと兄さんには苦手意識を持っていたが、いつの間に、そんなものなくなっていた」
「良かったです。苦手意識というより、歩み寄るきっかけが必要だったのかも。僕と潤のように……」
「そうかもしれないな」
「良かったですね。本当に」
「あぁ」
瑞樹が優しく相槌を打ってくれる。
話を聞いてもらえることが、こんなに嬉しいなんて。
さっきまでの仕事の疲れは、もうなくなっていた。
我が家で愛する人と語り合える。
たったそれだけのことで、幸せが満たされていく。
「難しいことは、いらないんだな」
「そのようですね」
「そうだ。明日の弁当のメニューは決まったのか。リクエストしてから買い物に行こうと話していたよな。さっきの話から恒例の唐揚げというのは分かったが、後はなんだった?」
「いつも通りでしたよ。ソーセージと卵焼きがいいと」
「結局いつもの定番が一番なんだな」
「僕もずっとそうでした」
「そうか、芽生はやっぱり瑞樹に似ているな」
今日の出来事は、きっと芽生にとっても忘れられない思い出となるだろう。
頑張ったこと、助けられたこと、嬉しかったことは、思い出として蓄積していこう。
俺たち家族の歴史は、こうやって作られていく。
****
「パパぁ、いっくん、もうねましゅね」
「よし、じゃあ一緒に眠ろう」
「私も眠るわ」
「みんないっちょ?」
「そうだぞ。明日は運動会だから早起きするからな」
「わぁ、いっくんもする」
いっくんを真ん中に家族でくっついて眠った。
いっくんはお布団からあどけない顔を出して、ニコッと笑った。
「いっくん、あちたは、えーんえーんしないの」
「そうか」
「うん、あのね、おじーちゃんとおばーちゃんにも、パパとママとまきくんにも、いっくんのニコニコみてもらうの」
「楽しみにしているよ。美味しいお弁当一緒に食べような」
「うん、みーんなでたべようね」
「あぁ」
優しく楽しい夢を見よう。
そして、その夢はみんなで叶えていこう!
明日へ続く幸せがあるから――
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