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秋色日和 24
「いっくん、そろそろみんなの所に戻らないと」
「でもぉ
「どうしたの?」
「……ううん、あのね、いっくんね、もうしゅこし、ここにいたいの」
医務室で転んだ膝を消毒してもらい一旦シートに戻ってきたいっくんが、園児席に戻りたがらなかった。
そのことに、すみれは困惑した様子だ。
「でも、みんな、ちゃんと自分の席にいるのに……いっくんだけ特別は……」
「えっとね、いっくん、おひざ、いたくなってきたの。ママぁ、だっこちゃんしてぇ」
いっくんが精一杯、小さな手を伸ばす。
そうか、槙が生まれてからはママの手は塞がっていて、寂しかったんだな。
槙はオレにそっくりの顔のくせに、オレが抱くととにかく大泣きで、すみれだとニコニコする。だからなかなか変わってやれなくてごめんな。ちなみにオレの母さんもOKのようで、今は母さんの腕の中ですやすやと眠っている。
いっくんが甘えられるチャンスだ。
「そうね、今まで抱っこしてあげられなかったもんね。潤くん、そうしても、いいかな?」
「あぁ、そうしてやろう。戻りたくなったら戻るさ」
と言いつつ端から見たら甘やかし過ぎだと思われるかもと、つい周囲の顔色を伺ってしまう。
だが母さんと目が合うと「それで大丈夫よ」と力強く頷いてくれたので、ほっとした。
俺もすみれも、まだまだ若い。
自分たちの判断に不安になることも多々あり、周囲の目を気にして貫けないこともあれば、進む道を間違ってしまうこともある。だからそんな時は身近な信頼できる人のアドバイスを素直に受けたい。
突っ走って意地を張ってポキンと折れてしまうより、しなやかに生きていきたい。それがオレがここまで生きて来た教訓だ。
いっくんと槙を伸び伸びと育てるために必要なことだでもある。
いっくんはゴールでママが出迎えてくれたのが、よほど嬉しかったらしく、まだまだ離れたくないようだった。
オレと出会う前、どんなにいっくんが寂しい思いをしていたのか。同時にすみれが我慢したことも計り知れない。それを物語る光景だった。
「ママぁ、あのねぇ、さっきね、ほんとにうれちかったの。いっくんね、ずーっと、あーちてみたかったの」
「そっか、そうだったのね、これからはずっとしてあげる」
「ママぁ、でもね、いっくんはおおきくなりたいの。ママをまもってあげたいの。だからいま、だっこがいいの」
「いっくんってば、もう、ママも離れたくなくなっちゃった」
いっくんはコアラみたいにママにくっついて離れない。
すみれもいっくんを宝物のように抱きしめて離れない。
すみれの瞳には幸せな涙が、また滲んでいた。
オレはそっとその場を離れ担任の先生に事情を話しに行った。すると先生の方から逆にそうしてやってくださいと頼まれてしまった。
「毎年、毎年、私達はそれはもう、いっくんを抱きしめてあげたくてたまらなかったのですよ。でも他の子の手前、特別扱いできなくて……」
「え?」
「どんぐり保育園のかけっこでは、ゴールで毎年ご家族の方が出迎えて、がんばって走り抜いた子供を抱っこしてあげるんです。赤ちゃんのときはハイハイ競争、歩けるようになったらヨチヨチ競争と、年齢毎に様々な競争があるんです。その度にいっくんはひとりでした。どんなに頑張っても……誰も待っていないゴールに向かって走って、その後は、いつもぽつんと立っていました。じっと周りを見渡して『せんせい、いっくんのパパはまだぁ?』って聞くんですよ。ママが忙しいことを子供ながらに悟っていたんでしょうね。いつもパパを探して……上を向いていました」
先生の話に、ぐっと涙を誘われた。
オレは母さんが来られなくても、どっちかの兄さんが来てくれた。
……
「じゅーん、がんばったね。かっこよかったよ」
「潤、駆けっこ早かったな。かっこ良かったぞ」
……
頭を撫でてほめて抱きしめてもらった思い出があるのに、いっくんには何もなかったのか。
そう思うと泣きそうになった。
いや泣いている場合じゃない。
いっくんは、もっともっとパパとママに甘えていい。そうした方がいい。
「だから去年、パパが出来たと聞いて本当に嬉しかったです。いっくんはパパにいっぱい甘えて、ようやくママにも甘えていいのだと思えるようになったのでしょうね。今だからいっくんはようやく甘えられるのです。だからこちらは気にせず、いっくんが戻ってきたくなるまで抱きしめてあげてください」
「分かりました。ありがとうございます」
良かった。
俺たちは、この道で間違えていない。
そう確信した。
小さな子供に注ぐ愛情はおもいっきりでいいんだ。
その愛情を土壌に、子供はスクスク育っていくのだから。
肥沃な大地では心の豊かな子が育つ。
しっかり根を張って枝を広げて、誰かを守る人になる。
「ママぁ、だいしゅき」
「いっくん、ママもよ」
「いっくん、パパも大好きだ」
「パパぁ……いっくん、うれちい」
「そうだな」
オレはすみれといっくんを一緒に包み込むように抱きしめた。
****
運動会の競技が始まった。
まずは1年生のかけっこから。
小さな子供達のキラキラな笑顔が眩しいね。
芽生くんが出ない競技も、僕たちは目を細めてずっと応援した。
憲吾さんが取ってくれた席は最前列。
よく見える分、応援にも力が入るよ。
「そうだ! がんばれ! 最後まで諦めるな!」
僕の隣で、憲吾さんも真剣な顔で声を出して応援している。
憲吾さんもこんな大きな声を出すのか。
もちろん宗吾さんも白熱している。
「それー いけー がんばれ!」
子供は応援されることで、自分を励ましてくれえる大人の存在を認識し、大人は子供に夢を託せる。
そして子供は真っ直ぐにゴールに向かって走り出す。
大人は無事にゴールに辿り着く様子に、達成感を抱く。
「瑞樹、どうした?」
「宗吾さん、眩しくて……子供たちが輝いて見えます」
「そうだな、今頃、いっくんも頑張っているだろうな」
「いっくん、今日はうれしいでしょうね。念願だったんじゃないかな? パパとママが揃っての運動会」
「そうだな。いまのうちに沢山甘えられるといいな。もう芽生は俺にはあまり甘えてくれなくなったからなぁ」
昨日、僕の膝に乗って甘えてくれた芽生くんを思い出して、愛おしさが増した。
「瑞樹がいてくれてよかったよ。俺とだと似たもの同士でぶつかるが、瑞樹の優しさが緩和してくれるんだ。芽生もまだまだ瑞樹にはべったりだしな」
「役に立って嬉しいです」
僕は足手纏いで、僕なんかいない方がいいと、勝手に自己完結して生きて来た頃があった。
あの頃の僕に言ってあげたい。
君は必要な人間で、役に立つ人になる。
君を待っている人がいると――
「お、次はいよいよ芽生の出番だ」
「はい、早速100メートル走ですね」
「どうする? ここで見るか。それともゴールで写真を撮るか」
「ここにいます。ここならカーブがよく見えますし。昨日、ここで見ると約束したので」
「そうか、写真は任せたぞ」
「はい!」
僕は再び一眼レフを取り出し、片足を地面につけて身体を安定させてサッと構えた。
右手、左手、それからファインダーに触れる目の三点でカメラを安定させ、脇を閉めて、ぶれないように身体を固定した。
いつもお父さんが取っていた姿勢が、記憶の中から飛び出してきた。
お父さんもいつもこんな気持ちで、僕を撮ってくれたのですね。
今なら分かります。
お父さんの愛を感じられます。
……
さぁ、おいで俺の瑞樹《エンジェル》!
君の一生懸命な姿を見せてくれ!
……
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