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冬から春へ 74
いっくんがクラスでお別れをしている時間を利用して、オレたちは幼稚園の事務室で退園手続きをした。
「短い間でしたが、息子が大変お世話になりました」
「こちらこそ、樹くんと出会えて幸せでした。最初は保育園から急に幼稚園に通うことになり、慣れなくて大変そうでしたが、男の子らしく頑張って、自分からお友達を作ろうと努力していましたよ」
先生から手放しで褒められて、オレもすみれも嬉しい気持ちで一杯になった。
「急に帰ることになってすみません。樹がどうしてもお別れを言いたいというので……いろいろ無理を言ってすみません」
「いえいえ、急にいっくんが来なくなってしまったらみんな心配しますし、寂しがるので、来て下さって良かったです。そういえば、入園の申し込み時には樹くんのおじさんが問い合わせの電話の後すぐに駆けつけて下さいました。樹くんは大勢の大人に愛されていますね」
幼稚園に通うのを提案してくれたのは、宗吾さんとお兄さんの憲吾さんだった。
憲吾さんは兄さんの話によく出てくる人で、弁護士というお堅い職業に就いているそうだ。そんな忙しい人が、樹のために幼稚園バッグを買いに行ってくれたりと、奔走してくれた。
「すみれ、オレたちは恵まれているな」
「えぇ、みんなが助けてくれたのね」
すみれは美樹さんが亡くなった時、一人で寂しい思いをしたから、もう二度と、そんな思いをさせたくなかった。
だからこそ、オレは兄さんに頼んだ。
何度も思うが、瑞樹兄さんに預けて良かった。
兄さんが繋いでくれた縁のおかげで、すみれもいっくんも槙も寂しい思いをしなかった。
「また東京にいらした時は、お気軽にお寄りください」
「えっ、いいんですか」
「もちろんですよ。一瞬でもこの幼稚園に在籍した子は、みんな大切な縁の子、みんなのお友達ですよ」
「あ、ありがとうございます」
感激した。
優しい言葉をもらった。
都会は人間関係が希薄だと思って警戒していたが、そんなことなかった。
やがてパタパタと可愛い足音が廊下から聞こえてきた。
「いっくんだわ」
「あぁ」
幼稚園の先生と手をつないで、いっくんが事務室に戻ってきた。
「パパぁ、ママぁ、いっくん、またあおうねっていってきたよ」
「え? お別れをしてきたんじゃないの?」
「えっとねぇ、さよならじゃなくて、『またあおう』がいいなって……めーくんにさっきいってもらえて、うれしかったから、まねしちゃった」
「そうね、そうよね。また会えるんだもんね」
「うん、そうだよ」
美樹さんにはもう会えないが、美樹さんが残してくれたいっくんは、毎日オレたちに幸せを届けてくれる。
何度も何度も思うが、オレ、いっくんに出会えてよかった。
先生にお礼を言って幼稚園を出ると、道の向こうを全速力で走ってくる背広姿の人がいた。
真面目そうな男性が、あんなに急いで、どうしたのだろう?
「あ、ケンくんだ!」
「ケンくん?」
どうみてもオレたちよりずっと年上の大人だが……
「ケンくんって、だれだ?」
「そーくんのおにいちゃんだよ」
「あ! あの人がそうなのか」
朝一番にご実家を訪ねたが、憲吾さんは出勤された後で会えなかった。
もしかして、わざわざオレたちに会いに?
「けんくーん!」
いっくんが口に小さな手を添えて、大きな声で叫んだ。
いっくん、いつの間に、こんなに大きな声を出せるようになったんだ? 軽井沢では、ふんわりやさしい話し方しかしなかったので驚いた。
目が合うと、いっくんがニコッと可愛らしく微笑んでくれた。
「えへへ、あのね、とうきょうは、いろんなおとがおおきいから、いっくん、がんばっておおきなこえだしたの」
「そうか、確かに街の音が五月蠅くて、声がかき消されちゃうな」
「けんくーん、ここでしゅよ」
「おぉ、間に合ったか」
その男性は信号を渡って、こっちにやってきた。
ハァハァと肩で息をしながら、オレたちの前で立ち止まった。
「けんくん、いっくん、かえりましゅね」
「もう帰ってしまうのか。なんだか寂しいなぁ」
心から言葉に、じわっとした。
いっくんは人の心を捉える天才だな。
「だいじょうぶですよ。またあえましゅよ」
「……そうか、そうだな、あ、挨拶が遅れて……私は宗吾の兄の憲吾です」
「こちらこそ挨拶が遅れてしまって、葉山潤です。この度はオレの家族を守って下さってありがとうございます。樹を可愛がって下さってありがとうございます」
深々とお辞儀をすると、憲吾さんが眼鏡の縁を指で摘まんで照れ臭そうな顔をした。
「私が出来ることをしただけだ。だからお礼なんて……ただ樹くんが健気で可愛らしくて……放ってはおけなかったのだ」
「そんな風に思って下さって、樹は幸せ者です」
きっと兄さんもこんな風に、憲吾さんに可愛がられているのだろう。いっくんは少し兄さんに似ているから、きっとそうだと核心した。
「いっくん、元気でな。またおじさんと遊ぼう」
「ケンくんもげんきでいてくだしゃいね。だいしゅきですよ」
「いっくん」
いっくんの天使語炸裂で、心がほわほわだ。
兄さん――
人と人のつながりってすごいな。
兄さんのおかげで、オレ、人に恵まれるようになったよ。
****
潤たちは、そろそろ新幹線に乗った頃かな。
弟のために僕に出来ることがあって良かった。
役に立てて良かった。
PCで作業しながら、そっと軽井沢に戻る弟の姿を思い浮かべた。
潤がお父さんたちと力を合わせて作った家、絶対に見に行くよ。
次は僕が行く番だ。
火事で大変な目に遭った潤が、自分の力で這い上がり、堂々と父親として家族を迎えにきた。
潤は、最高の父親だ。
そして僕の大事な弟だ。
そう胸を張って言える!
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