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冬から春へ 75

 職場に着いた途端、美智から連絡が入った。  昔だったら一旦家から出たら、たとえ手が空いていても、家庭のことは後回しにしてスルーしてしまったのを思い出し、反省した。    今は打ち合わせ中や重要な任務中でなかったら、確認している。  母のこと、娘のこと、美智自身のこと。  それから宗吾や瑞樹、芽生のこと。  私が尽力したい人たちのことは、いち早くキャッチしておきたい。  そのためにも、美智に躊躇せずにマメに連絡してくれと、頼んである。    こんな朝早くから何事だろう?  何かあったのか。   ……  憲吾さん、お仕事中ごめんね。  今、いっくんがお父さんと一緒に、我が家に挨拶に来てくれたの。  軽井沢の家がついに整ったそうで、今から幼稚園に挨拶して、そのまま新幹線で帰ってしまうとのこと。  あなたが後で知ったら寂しがるかなって思って、連絡しました。 ……  なんと!  そうなのか。    いっくんが楽しみに待っていた父親が、ついに迎えに来てくれたのか。    良かったな。  しかも、わざわざ我が家に挨拶に寄ってくれたのか。    流石、瑞樹の弟だ。  律儀のことを。  私も礼を尽くしたい。  時計を見ると、まだ業務開始まで1時間あった。  早めに出社して処理しようと思った仕事は、そこまでの急ぎでない。  今から幼稚園に向かったら、会えるだろうか。  ギリギリ間に合うか。  いっくんにお別れを言いたくて、私は道を急いだ。    渋谷から中目黒まで戻るのは苦ではない。    そこから走れば――  考えるよりも先に、身体が動いていた。  私はずっと頭で考える人間だったのに、これはどうしたことか。  心のままに動くなんて、驚きだ。  天使のようないっくんが、お父さんと会えて幸せそうな笑みを浮かべている場面を、どうしても見たかった。    中目黒駅から、芽生が通っていた幼稚園は少し離れていた。  子どもの足で20分以上程かかるので芽生はバス通園していたが、バスの定員が満員だったので、毎日、菫さんが送迎していた。  赤ん坊といっくんを連れて寒い道を通うのは大変だったろうが、少しも不平不満は漏らさす、むしろ通えることに感謝してくれた。  その姿勢にも頑張り屋の親子だと感銘を受けていた。  そんな君たちに、エールを送りたい。  心からのエールを。    私は全速力で走った。  スーツ姿で走るなんて、したことがなかった。    冷たい空気が気持ち良く、景色が流れて行くのが、新鮮だった。  やがて幼稚園の門が、道の向こうに見えてくる。  丁度その時、いっくん達が出てきた。  私を見つけて笑顔を浮かべてくれたので、嬉しくなった。  私の取った行動が、正解か不正解か。  それは問題ではない。  いっくんの表情が答えだ。  私はずっと頭でっかちで、予定外のことをするのが嫌いだった。  自分が立てたスケジュールから外れるのは邪道だと思っていた。  そうではないのだな。  寄り道、回り道によって見えてくる光景。  つかめる心。  触れ合える思いがあるのだ。  宗吾が瑞樹を連れてきてくれてから、沢山の優しさに気付けた。  歩み寄ること、寄り添うことの大切にさにも気付けた。  気付くだけでなく、私も真似したくなった。  実行したくなったのだ。  いっくんのお父さんとも、挨拶出来てよかった。  瑞樹とは外見は似ておらずタフなガテン系の男性だったが、心があたたかいのが滲み出ていた。  いっくんが大好きオーラ全開で父親を見つめ、父親も溺愛モードで見つめている。  なるほど、相思相愛なのだな。  父と子の気持ちが愛で溢れている。    ところが、この光景を見られて満足だったはずなのに、いざ別れが近づくと、柄にも寂しくなってしまった。    そんな私の様子に気づいたのか、いっくんが天使のような発言を。 「ケンくんもげんきでいてくだしゃいね。だいしゅきですよ」 「いっくん……」  思わず泣きそうになったが、この別れに涙は似合わないと思った。 「また会おう! 今度は一緒に野球を観よう」 「やきゅう! わぁぁ、いっくんうれちいでしゅ。ケンくん、またきましゅ。ぜったいきましゅよ」 「あぁ、待ってるよ。さぁもう行きなさい」 「あい!」  潤くんと菫さんが深々と頭を下げたので、私も同じように心を込めてお辞儀した。  お互いに感謝の気持ちで一杯だった。 ****  予定通りの新幹線に、乗れた。 「パパぁ、あたらしいおうちはどんなところ?」 「そうだなぁ、前よりずっと広いが、1階でみんなが一緒に過ごせるようにしたよ」 「わぁ、よかった。いっくん、まだまだパパといっちょがいいよぅ」 「ありがとう。パパもだよ。ママも槙も一緒だ」  家族が笑顔になる家を作りたい。  その思いに後押しされて、リフォームした。  古い家だが、かつて人が住んでいた温もりのある家だった。その部分を生かそうと、お父さんと相談しながら作り上げた城だ。  いよいよ今日、最愛の家族を迎え入れる。  年明け早々、大変な災害に見舞われた。    家財一式失ったが、家族の絆は深まった。  そして、周りの人からの愛を、しみじみと実感した。  ここまで来られたのは、オレ一人の力では到底無理だった。  周囲の協力があってこそだ。 「いっくんがいちばんうれちいのはね、パパとまたおててつなげることだよぅ。パーパ、だいしゅき」  いっくんの小さな手が導いてくれる世界は、暖かくて優しい。    オレはこの世界が大好きだ。  

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