1693 / 1740
冬から春へ 75
職場に着いた途端、美智から連絡が入った。
昔だったら一旦家から出たら、たとえ手が空いていても、家庭のことは後回しにしてスルーしてしまったのを思い出し、反省した。
今は打ち合わせ中や重要な任務中でなかったら、確認している。
母のこと、娘のこと、美智自身のこと。
それから宗吾や瑞樹、芽生のこと。
私が尽力したい人たちのことは、いち早くキャッチしておきたい。
そのためにも、美智に躊躇せずにマメに連絡してくれと、頼んである。
こんな朝早くから何事だろう?
何かあったのか。
……
憲吾さん、お仕事中ごめんね。
今、いっくんがお父さんと一緒に、我が家に挨拶に来てくれたの。
軽井沢の家がついに整ったそうで、今から幼稚園に挨拶して、そのまま新幹線で帰ってしまうとのこと。
あなたが後で知ったら寂しがるかなって思って、連絡しました。
……
なんと!
そうなのか。
いっくんが楽しみに待っていた父親が、ついに迎えに来てくれたのか。
良かったな。
しかも、わざわざ我が家に挨拶に寄ってくれたのか。
流石、瑞樹の弟だ。
律儀のことを。
私も礼を尽くしたい。
時計を見ると、まだ業務開始まで1時間あった。
早めに出社して処理しようと思った仕事は、そこまでの急ぎでない。
今から幼稚園に向かったら、会えるだろうか。
ギリギリ間に合うか。
いっくんにお別れを言いたくて、私は道を急いだ。
渋谷から中目黒まで戻るのは苦ではない。
そこから走れば――
考えるよりも先に、身体が動いていた。
私はずっと頭で考える人間だったのに、これはどうしたことか。
心のままに動くなんて、驚きだ。
天使のようないっくんが、お父さんと会えて幸せそうな笑みを浮かべている場面を、どうしても見たかった。
中目黒駅から、芽生が通っていた幼稚園は少し離れていた。
子どもの足で20分以上程かかるので芽生はバス通園していたが、バスの定員が満員だったので、毎日、菫さんが送迎していた。
赤ん坊といっくんを連れて寒い道を通うのは大変だったろうが、少しも不平不満は漏らさす、むしろ通えることに感謝してくれた。
その姿勢にも頑張り屋の親子だと感銘を受けていた。
そんな君たちに、エールを送りたい。
心からのエールを。
私は全速力で走った。
スーツ姿で走るなんて、したことがなかった。
冷たい空気が気持ち良く、景色が流れて行くのが、新鮮だった。
やがて幼稚園の門が、道の向こうに見えてくる。
丁度その時、いっくん達が出てきた。
私を見つけて笑顔を浮かべてくれたので、嬉しくなった。
私の取った行動が、正解か不正解か。
それは問題ではない。
いっくんの表情が答えだ。
私はずっと頭でっかちで、予定外のことをするのが嫌いだった。
自分が立てたスケジュールから外れるのは邪道だと思っていた。
そうではないのだな。
寄り道、回り道によって見えてくる光景。
つかめる心。
触れ合える思いがあるのだ。
宗吾が瑞樹を連れてきてくれてから、沢山の優しさに気付けた。
歩み寄ること、寄り添うことの大切にさにも気付けた。
気付くだけでなく、私も真似したくなった。
実行したくなったのだ。
いっくんのお父さんとも、挨拶出来てよかった。
瑞樹とは外見は似ておらずタフなガテン系の男性だったが、心があたたかいのが滲み出ていた。
いっくんが大好きオーラ全開で父親を見つめ、父親も溺愛モードで見つめている。
なるほど、相思相愛なのだな。
父と子の気持ちが愛で溢れている。
ところが、この光景を見られて満足だったはずなのに、いざ別れが近づくと、柄にも寂しくなってしまった。
そんな私の様子に気づいたのか、いっくんが天使のような発言を。
「ケンくんもげんきでいてくだしゃいね。だいしゅきですよ」
「いっくん……」
思わず泣きそうになったが、この別れに涙は似合わないと思った。
「また会おう! 今度は一緒に野球を観よう」
「やきゅう! わぁぁ、いっくんうれちいでしゅ。ケンくん、またきましゅ。ぜったいきましゅよ」
「あぁ、待ってるよ。さぁもう行きなさい」
「あい!」
潤くんと菫さんが深々と頭を下げたので、私も同じように心を込めてお辞儀した。
お互いに感謝の気持ちで一杯だった。
****
予定通りの新幹線に、乗れた。
「パパぁ、あたらしいおうちはどんなところ?」
「そうだなぁ、前よりずっと広いが、1階でみんなが一緒に過ごせるようにしたよ」
「わぁ、よかった。いっくん、まだまだパパといっちょがいいよぅ」
「ありがとう。パパもだよ。ママも槙も一緒だ」
家族が笑顔になる家を作りたい。
その思いに後押しされて、リフォームした。
古い家だが、かつて人が住んでいた温もりのある家だった。その部分を生かそうと、お父さんと相談しながら作り上げた城だ。
いよいよ今日、最愛の家族を迎え入れる。
年明け早々、大変な災害に見舞われた。
家財一式失ったが、家族の絆は深まった。
そして、周りの人からの愛を、しみじみと実感した。
ここまで来られたのは、オレ一人の力では到底無理だった。
周囲の協力があってこそだ。
「いっくんがいちばんうれちいのはね、パパとまたおててつなげることだよぅ。パーパ、だいしゅき」
いっくんの小さな手が導いてくれる世界は、暖かくて優しい。
オレはこの世界が大好きだ。
ともだちにシェアしよう!