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春色旅行 18

 スロープカーの乗り場が近づくにつれて、道の脇にぽつりぽつりと街灯が灯り始めた。  さっきまでの暗闇が嘘のように、明るい光が足元を照らしている。  もう、僕のスマホの灯りは必要ないな。  なんだか、少しだけ寂しい。  ご夫婦とのお別れが近づいているから。  少し名残惜しい気持ちで足を止めると、奥さんも立ち止まり、僕の方を向いて優しく微笑んだ。 「ここまでありがとう。本当に助かりました」  ご主人も軽く会釈をしてくださった。  優しい時間なのに、どこか切ない表情だ。  ――両親を亡くした僕と、息子さんを亡くしたご夫婦。  失ったものは違っても、胸の奥にぽっかり空いた穴を抱えて生きている部分で、通じるものがあるようだ。 「こちらこそ……出会えて、よかったです」  素直に伝えると、奥さんは抱いていた写真立てを見つめ、もう一度夜空を見上げた。 「きっと……あの子も、今日は嬉しかったと思います」  そう言って、ご夫婦は静かに乗り場の方へと歩き出した。  去っていく背中をしばらく見つめ、軽く頭を下げて歩き出した。  さぁ、僕は宗吾さんと芽生くんの元へ戻ろう。  すると―― 「あのっ、ひとつだけ聞いてもいいですか」  奥さんの呼びかけに、ぴたりと足が止まる。  なんだろう?  振り返ると、彼女は少し戸惑ったように僕の顔を見つめていた。 「はい、僕で答えられることならば」  そう伝えると、奥さんはひと呼吸おいてから言った。 「あの……あなたが灯りを照らしてくれた時、ひとりで逝ってしまったあの子にも、誰かがこうして手を差し伸べてくれていたらって、ふと思ったんです」  その言葉に、ご主人が静かに頷く。 「私もそう思ったら、少し救われた気がしました」  奥さんは、胸元に抱えた写真立てをぎゅっと抱きしめた。  そして僕に、また問いかけてくる。 「あなたは、どうして私たちに優しくしてくれたのですか」  僕は、そっと微笑んで答えた。 「僕は事故で両親を亡くして、10歳の時にひとりになってしまったんです。でも周りの人に助けてもらって、たくさんの優しさをもらって生きています」  夜風がすっと通り過ぎていく。  こんなふうに見ず知らずの人に、僕の過去を語るのは初めてだ。 「そうだったのね。私たちはどこか似ていたのね」 「はい。だから次は僕の番だと思っているんです。きっと優しさって、そうやって巡っていくのかなと」  奥さんは口元を手で覆い、小さく頷いた。 「……ありがとうございます。本当に、ありがとう」  ご主人も、目元をぬぐっている。 「君の幸せが、ずっと続きますように祈っています」  その言葉は胸の深い部分に、やさしく降り積もった。  僕は深くお辞儀をしてから、心から願った。 「どうかお元気で。……息子さんも、きっと、ずっとそばにいます」  ご夫婦はゆっくりと背を向け、スロープカーの明かりの方へと歩いていった。  手のひらには、さっきまで握っていたスマホのライトのぬくもりが、まだ残っている。 「瑞樹、俺たちも行こう」  宗吾さんが静かに声をかけてくれた。  芽生くんが走ってきて僕の手を引っ張ってくれた。 「お兄ちゃん、すごくかっこよかったよ。ボクもお兄ちゃんみたいに優しくて、かっこいい人になりたいな」  今の僕はこんな風に誰かに優しさを渡せるようになったのか。  悲しみの中で見つけた光を、次の誰かへつないでいく。  僕にも出来ることはある。  沢山あるんだ。    宗吾さんと芽生くんと並んで、スロープカーの乗り口へ向かおうとすると、不意に手を引かれた。 「あの?」  振り向くと、宗吾さんが二カッと笑っていた。  こういう顔を宗吾さんがする時は、絶対何か企んでいる。  とても素敵なことが待っている予感― 「俺たちは、こっちだよ」  手を引かれるままについていくと、そこにはガラス張りのテラスが美しい、夜景の見えるレストランがあった。 「予約していた滝沢です」 「お待ちしておりました。特別なお席をご用意しております」 「ありがとう!」  通された窓際の席からは、長崎の街が宝石のように輝いて見えた。 「わぁ……キレイです」 「だろ?」 「パパもかっこいい!」  運ばれてきたのは、スパークリングワイン。 「瑞樹、今日は誕生日前日だが、フライングするぞ。誕生日おめでとう! 今年は旅先で祝えてうれしいよ」  宗吾さんの言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。 「……ありがとうございます、宗吾さん」 「俺たちの初めてって、まだまだいっぱいあるよな。来年もその次も、きっとまた新しい初めてを一緒に迎えよう」  芽生くんも隣で、大きな目をキラキラ輝かせている。 「お兄ちゃん、ええっと、5月2日には、まだ5時間早いけど、まちきれなくて! もう『おめでとう』でいいよね!」 「くすっ、うん、ありがとう」  頬が緩んでいく。  こんなにも、あたたかくて優しい夜があるなんて――  昔の僕には、想像できなかった。 「ありがとう……ふたりとも。僕……こんなに幸せでいいのかな?」  宗吾さんが、そっと僕の手を取り重ねる。 「いいに決まってるさ! 瑞樹はもっともっと幸せになっていいんだ。俺たちの幸せな存在なんだから」  その言葉に、また胸がギュッとなる。  今宵の長崎の夜景は格別だ。  キラキラと瞬く幸せで溢れている。  目元に浮かぶしずくにも、きっと長崎の光が映っている。

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