1817 / 1863
しあわせ図鑑 7
めぐろ弁護士会から一本の電話が入ったのは、昼過ぎのことだった。
「夏休みに地域の子ども向けイベント『ジュニア・ロースクール』がありまして、小学生を対象に弁護士の仕事を紹介したり、模擬裁判をやったりする催しです。今年は小学5年生と6年生を対象に行うので、ぜひ滝沢先生にも手伝っていただきたいのですが」
……子ども向け、か。
話を聞きながら、内心ため息をついた。
正直、子ども相手のイベントは苦手だ。
若い頃、似たような企画に無理やり駆り出されたことがあった。
ただ真面目にやろうとしただけなのに、口調と表情が怖かったらしく、ひとりの子供に泣かれてしまい、そこから連鎖反応で何人も泣き出し、ちょっとした騒ぎになってしまった。
以来この手のイベントの依頼は「私には向いていない」と判断し、極力避けてきた。
「申し訳ありませんが……」と断りかけたそのとき、不意に芽生の顔が脳裏をよぎった。
去年の1/2成人式で、芽生は緊張しながらもまっすぐ前を向き、「ボクの夢は弁護士になることです」と堂々と話してくれた。
その場の勢いだけではない、芯のある眼差しだった。
もちろん、芽生はまだ10歳そこそこだ。
これからいくらでも夢は変わっていくだろう。むしろ、変わって当然だ。
もっと広い世界を知って、いつでも選びなおせばいい。
だが、それでも、私の存在が「芽生のなりたい将来」の一つになっている。
そのことが、しみじみ嬉しかった。
私はもうあの頃とは違う。もっと柔軟に対応できる気がする。
もし芽生が来てくれたら、普段は見せない弁護士滝沢憲吾としての姿を見せられそうだ。
そう思うと、急にやる気が満ちてきた。
「……やはり、参加させていただきます。それで、そのジュニア・ロースクールに、私の甥っ子も参加させたいのですが、枠はありますか」
「もちろん、どうぞ」
「ありがとうございます。では予定を確認してご連絡します」
受話器を置いたあと、自分が思っていたよりもずっと上機嫌なことに気づき、少しだけ苦笑した。
子どもは苦手と思っていたのに、芽生の存在が私を少しずつ変えてくれるようだ。芽生は明るい太陽のような子だ。私の心は太陽を浴びて、真っすぐすくすくと育っている。
さてと、当日、むっつり顔にならないように、笑顔の練習でもしておこうか。
その晩、帰宅すると、彩芽が満面の笑みで飛びついてきた。
「パパ、おかえりなしゃい」
「あーちゃん、ただいま」
「わぁ、パパ、にこにこさん」
「そ、そうか」
「パパ、それ、しゅきよー」
「そうかそうか」
えくぼを作って笑う娘の顔に、目じりが下がる。
芽生と彩芽に、私は育てられている。
そう実感する瞬間だった。
***
日曜の午後、宗吾が仕事で外出するというので、私は宗吾のマンションを訪れた。
インターホンを押すと、ひんやりとした冷気とレモンの爽やかな香りが迎えてくれた。
「やぁ、こんにちは」
ペパーミント色のエプロン姿の瑞樹が、柔らかく微笑んでくれた。
「憲吾さん! そろそろいらっしゃるかなと思っていました。一緒に食べようと思って、芽生くんとレモンゼリーを作っていたんですよ」
「ほぅ、それは、楽しみだな」
「おじさん、こんにちは!」
芽生も嬉しそうに駆け寄ってくる。
「芽生、夏休み、楽しく過ごしているか」
「うん、もうワークは終わらせたよ」
「そうか、えらかったな。今日は芽生にいい話があって」
「いい話! なにかな?」
芽生が目を輝かせる。
「今度、中目黒のコミュニティプラザで『ジュニア・ロースクール』という小学生向けのイベントがある。法律について学んだり、模擬裁判を体験したりできる催しだ」
「あ、それ、学校でもプリントもらったかも。ちょっと待ってて」
芽生が子供部屋からプリントの束を持って戻ってきた。
「これのこと? ボク、すごく行ってみたいって思ってた!」
「そうだ、そのイベントだ。……そこで、私が講師を務めることになってな。芽生、参加してみないか」
「いいの?」
芽生の瞳がキラキラと輝く。
「大歓迎だよ」
「やったあ! おじさんと一緒に参加できるなんて最高だね」
ぴょんぴょんと飛び跳ね、私に抱きついてきた。
「おじさん、ありがとう、ありがとう!」
「……そんなに喜ぶとは思わなかった」
自然と頬が緩む。
横では瑞樹が、ふわりと微笑んでいた。
「芽生くん、本当に嬉しそうですね。きっと特別な夏の思い出になりますね」
「……ああ、私にとってもな」
レモンゼリーの透明感と、リビングに流れるハワイアンミュージックが心地良かった。
心が晴れやかだ。
いい夏になりそうだ。
ともだちにシェアしよう!

