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しあわせ図鑑 10

「そろそろ帰ることにしよう」 「えっ、もうすぐ宗吾さんが帰ってくるので、それまでいてください」 「そうだよ。おじさん、もっといて〜」  参ったな。こんなふうに二人から引き留められるなんて、帰りたくなくなるじゃないか。  確かに……今日は美智は、彩芽を連れて実家に泊まりに行っているし、母は女学校時代の友人と歌舞伎を観に行っている。  だから急いで帰る必要はない。  だが家族水入らずのところ、お邪魔ではなかろうか。  迷っていると、玄関が勢いよく開く音がした。 「あぁ、今日も暑かったよ」  すぐに宗吾がネクタイを緩めながら入ってきた。 「瑞樹、芽生、ただいま! ……お、兄さん、もう帰っちゃうのか」  宗吾からは微かに汗のにおいがして、それが外の暑さを物語っていた。 「そうだな。そろそろ帰ろうと思っていたところだ」 「今日はありがとう。そして頼む、少しだけ付き合ってくれよ。冷えてるビールがあるからさ」  宗吾はそのままキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。  プシュッ!  缶を開ける音が、爽快に響く。 「飲もうぜ」 「……ありがとう」  私たちは並んでソファに座り、缶のままビールを傾けた。  いつの間にか、芽生と瑞樹の姿は見えなくなっていた。  気を使ってくれたのか。  珍しい兄と弟の時間の到来に―― 「兄さん、今日はありがとう。芽生も瑞樹も喜んでいたよ」 「いや、私で役に立っただろうか」 「……兄さんも謙虚なところあるんだな」 「……これも私だ」 「そうだな。知れてよかったよ」  静かで優しい沈黙が流れる。  最初に、静寂を破ったのは私だった。 「……なあ、宗吾」 「ん?」 「父さんのことを覚えてるか?」  宗吾は眉を少し上げて、私の横顔を見つめた。 「もちろん。あの人の声も手も言葉も……ちゃんと覚えてるよ」 「……よかった」  私は少し笑った。するとじわじわと懐かしさがこみあげてくる。  六十代半ばで志半ばにして病に倒れ、あっけなく逝ってしまった父だった。 「亡くなる前、父さんは私に言ったんだ。人にとって一番難しいのは、自分が正しいと思い続けることではない。他人の正しさを認めて、それでも一緒にいようとすることだと……」  なぜこのタイミングで、こんな小難しい話の内容を、宗吾に話したくなったのかは分からない。  だが、聞いてほしかった。 「驚いたな。検事をやっていた兄さんに、そんなこと言ったのか」 「……当時の私には難しすぎる言葉だったよ。自分の正義で成り立っていたからな。だが……今なら少し、分かる気がする」  手元の缶ビールをぐいっと飲み干した。 「たぶん、瑞樹を見て、そう思ったんだ。あの子は自分よりも、相手を信じようとしている。父さんが見たら、絶対に好きになったよ。私と宗吾と芽生が彼を好きなように……」  宗吾はそれに答えず、缶ビールを大きく傾け、ゆっくりと飲み干した。  もっと宗吾と、私の弟と……語り合いたい。 「思えば、父さんの言葉はいつも深かったな。そういえば、生前、父さんは家庭は何かを守る場所じゃなくて、何かを育てる場所だって言っていたよな」 「覚えてるさ。当時のお前は、鼻で笑ってたけどな」 「そうだったな。正直、あの頃は誰かを育てるなんて綺麗ごとだと思っていた。育てるより、守る方がずっと大変だって……勝手に思い込んでいたよ」  宗吾はそう言って、缶ビールをグイっと飲み干した。 「だけど、離婚して、芽生と二人で向き合った時に気づいた。初めてその言葉の重みがわかった。何を守るかじゃなくて、何を育てていくか。それが、俺には足りてなかったんだ」 「……宗吾」  宗吾は、いつになく饒舌だった。  疲れた体に、ビールが効いているのだろうか。 「息子に『芽生』って名前をつけたのも、実はそれがずっと引っかかってたからなんだ。『生きて、芽生える』っていう言葉、綺麗ごとかもしれないけど……この子だけはちゃんと根を張って、誰に遠慮もせずに咲けるようにって願いたくなった。だから、芽生だ」  私は言葉を失って、ただ宗吾を見つめていた。  普段はお調子者の弟が、こんなにも誰よりも深く、真剣に、芽生の人生に向き合っていた。 「……それ、芽生が知ったら、泣くな」 「聞かなくていいさ。俺ひとりではうまく育てられなかった。途中で投げ出しそうになった男なのだから」 「宗吾は幸せ者になったな。瑞樹によって、あの子が育ってると実感できるし」  私の声は、かすかに震えていた。  宗吾は黙って、ビールをもう1本空けた。 「何度も言うが、芽生にとって宗吾はちゃんと父親だよ。芽生がまっすぐなのは、お前が最初から目をそらさなかったからだ」 「兄さん、俺、そう思ってもいいのか」 「もちろんだ」  短く、それだけの言葉だった。  けれどそれは、兄弟だからこそ通じる、最も確かな肯定だった。  宗吾がふっと笑う。 「……それなら、少し安心した」    ゆっくりと日が暮れていく。  リビングに広がるオレンジ色の光が、私と宗吾の蟠りをゆっくりと溶かし、満たしていく。

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