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しあわせ図鑑 11

「さてと、そろそろ帰るよ」  帰り支度を始めた兄さんを、「もう一杯だけ」と思わず引き留めてしまった。  ……不思議だな。  兄は、俺にとってずっと煙たい存在だった。以前は点数をつけられている気分になり、居心地が悪く、一刻も早く帰って欲しかったし、自分も早く帰りたくなったものだ。  思えばあの頃の俺は、だらしない人間だった。  そして兄さんは真っ直ぐすぎる人だった。  真っ直ぐな兄と、横道に逸れてばかりの弟。  過去の俺たちの間には、何の接点もなかった。  ──なのに、今は違う。  こんなにも、気持ちが揃っている。  今の俺たちは、家族を愛する心で満ちていて、自分たちだけでなく、周りも含めて縁ある人を大切にしたいと願っている。 「少し夜風にあたらないか」 「いいな」  ベランダの扉を開けて、冷蔵庫から持ってきたビールを手渡すと、兄さんは少し目を細めて笑った。 「宗吾とこんな場所で飲むなんて、不思議だな」 「……兄さんと、こんな風に話せる日が来るなんて……嬉しいものだな」  手すりにもたれて夜風を感じながら、俺は心からそう思った。 「私も同じことを考えていたよ。きっと……瑞樹くんが変えてくれたんだろうな。おまえのことも、私のことも」 「同感だ」  缶を合わせて軽く音を鳴らし、口に運んだ。  ビールの苦みは、過去の俺たち。  そのあとにこみ上げてくる爽快感は、今の俺たちだ。  ゆっくりと日が暮れていく。 「今日は、来て良かったよ」 「俺も急いで帰ってきて正解だ。兄さん、俺さ……今は自分の家に帰るのが楽しみなんだ」 「ほぅ、奇遇だな。私もなんだ」 「ははっ、兄さんがそんな口を聞くなんて」 「そうか? あ、……今、ふと父さんが亡くなる前に言ってた言葉を思い出したよ」 「なんて?」 「『家族は宝だ』と」 「そうか……」  父さんも、兄さんと同様、とっつきにくい人だった。真っすぐを好む人だったので、邪道なことばかりする俺は何も期待されていないと思い込み、俺の方から距離を置いてしまった。  最期までそんな感じだった。  だから……  ──そんな言葉を聞くと、会いたくなるじゃないか。  父さん、今になってずるいぜ。 「今になって思えば……父さんも不器用な人だったな。だが最後に残した言葉がそれだったってことは、きっとそれが本心だったんだろうな。父さんには申し訳ないが、今になってようやく、私はその言葉の意味が理解できるようになった」 「あのさ……」 「なんだ?」 「いや、なんでもない」 「……宗吾のこともずっと気にかけていたよ。最期まで……」  その言葉に切ない気持ちになった。 「……俺は、ろくに見舞いにも行かず、親不孝な息子だったよな。亡くなってから、ずっと後悔してる」 「宗吾、大丈夫だ。父さんもお前を大切に思っていた。お互い不器用なだけだったんだ。私も含めて滝沢家の男は皆、不器用だ。だからそんなに自分を責めるな」 「兄さん……」  ポンポンッ、と兄さんが俺の肩を優しく叩いてくれる。  近頃、ふとした表情が父さんに似てきた兄さんのその仕草が、まるで父さんに許してもらえたような気がして、胸がじんわりと熱くなった。 「兄さん、ありがとう。この先は、父さんが残してくれた言葉を大切にするよ」 「私の方こそ、ありがとう。私も大切にするよ。弟と一緒にな」 ****  思いがけず、二人の兄弟がゆったりと語らう貴重な時間が訪れた。  僕にも兄がいるから理解できる。  兄弟水入らずの時間を大切にして欲しくて、芽生くんが「夏休みの宿題をやる」と言い出したのを機に、ふたりで子供部屋へ移動した。 「ねぇねぇ、お兄ちゃんも、憲吾おじさんってカッコいいって思う?」 「うん。いつも冷静にわかりやすく話してくれて、落ち着いていて素敵だよね」  芽生くんの目線で返すと、満足そうにうなずいてくれた。 「うんうん、ボクもそう思う。でもね、お父さんもカッコいいよね。テキパキ準備してくれて、いつも、いろんなところに連れてってくれるし」 「そうだね、ふたりとも、それぞれすごくいいところがあるよね」  ──よかった。  海に行けなくてがっかりしていた気持ちから、少し離れられたみたいだ。  気持ちを切り替えられるって、生きていく上で大切なことだ。なんでも思う通りにはいかないから。  僕がそう答えると、芽生くんは少し間をおいて、いたずらっぽく笑った。 「でもね、ボク、いちばんは……お兄ちゃんがカッコいいって思ってるよ」 「えっ……」  僕が?  僕も、カッコいいと思ってもらえるの? 「だってね、お花をきれいにできるし、お仕事もいっぱいしてるし、ボクのそばにいつもいてくれるし……いっしょに寝てもくれるし……えへへ」  芽生くんはちょっと照れながら、でも真っ直ぐに言葉を続ける。 「かっこよくてやさしいのがお兄ちゃんだよ。ボク、お兄ちゃんみたいになりたいなって、いつも思ってるよ。だからお兄ちゃんの働いてるところも、見てみたいなって」  胸の奥が、じんわり熱くなる。  雑誌の取材を受ける話──まだ確定ではないが、ほぼ実現しそうなんだ。  だから僕にも、芽生くんの夢を叶えてあげられるかもしれない。 「ありがとう。今度……お兄ちゃんの職場も見に来てくれる?」 「えっ、本当に? 行きたいよっ!」 「うん。……叶えてあげられると思うんだ。きっと、もうすぐ」  こんなふうに僕のほうから、芽生くんの未来に約束できる日が来るなんて。 「お兄ちゃんって、最近、ちょっと変わったよね」 「え?」  変わったという言葉にドキリとする。  それはいい意味なのか、悪い意味なのか…… 「なんかね、すごくカッコよくなってる」  くすぐったくなるような言葉に、僕はそっと目を細めた。 「そ、そうかな?」 「うん! だからボクもお兄ちゃんみたいな、やさしくてカッコいい大人になりたいな」 「……なれるよ。芽生くんなら絶対になれるよ」 「ありがとう! うれしいよ」  そこへ、扉越しに声がかかる。 「瑞樹、芽生、私はそろそろ帰るよ」 「あ、はい」  玄関に立つ二人は、上機嫌な様子だった。    きっと、心がポカポカしているんだな。  とても、いい兄弟の時間を過ごせたようだ。 「芽生、詳しいことは、改めて連絡するよ」 「うん、おじさん。楽しみにしてるね!」 「今日は楽しかったよ」 「ボクも! 今度は遊びに行くね!」 「ああ、じゃあな」  軽く手を振って去っていく憲吾さんの背中は、とても幸せそうだった。  今年の夏は、いつもよりアクティブになれそうだ。  僕の心に、いい風が吹き出した。

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