1822 / 1863
しあわせ図鑑 12
「兄さん、上機嫌だったな。お土産まで持たせてもらって」
「喜んでいただけるといいのですが」
「ところで、あの箱に何が入っているんだ?」
「大沼のお母さん直伝のレモンゼリーです」
「あれか。……俺の分もある?」
宗吾さんが心配そうに見つめてくるので、思わずくすっと笑ってしまう。
宗吾さんは、食いしん坊な人だと、僕は身をもって知っている。
「もちろんありますよ。しかも、スペシャルなのを用意しました」
「スペシャル? なぁ、どんなスペシャルだ?」
僕たちの会話に、芽生くんが嬉しそうに加わる。
「それはね、ハチミツたっぷりなんだよ。だってお父さん、ハチミツ大好きでしょ?」
「へぇ。うれしいな。あ、でも……まさか使い切ってないよな?」
なぜか急に血相を変える宗吾さん。
「まだ残ってますよ」
「ほっ……よかった。あれは必需品だからな」
「ひつじゅひん?」
芽生くんは首をかしげ、僕は顔が熱くなって目をそらした。
なんだか嫌な予感。
まさか、また「あれ」をしたいんじゃ……
そっと宗吾さんを見ると、彼は軽くウインクしてきた。
……参ったな。あれは、べたべたして困るよ。
「そろそろ、使い切るかな」
「え、まだ早いですよ!」
「ん?」
「えっ……あ、あぁぁ、また……」
――僕の煩悩、静まれ!
****
食後、宗吾さんと芽生くんと僕の三人で、冷たいレモンゼリーを囲んだ。
「んん〜、つめたくて、すっぱくて……でも、あとからやさしい味がするのはどうして?」
「レモンの皮をすりおろして、最後にハチミツを少しかけたからかな」
「あとは瑞樹と芽生の愛情がどっさり入っている」
「じゃあ、甘いのはきっとそこだね」
三人で食べるレモンゼリーは、ひときわ美味しく感じられた。
大切な人と一緒に食べるのって、こんなにも心をほぐすものだったんだ。
「ふぅ、今日は休日出勤で疲れていたが、このゼリーのおかげで体が軽くなったよ」
宗吾さんがそう言うと、芽生くんは誇らしげに笑った。
「それって、きっと幸せな気持ちが心をあったかくしてくれたからじゃないかな」
最近の芽生くんは、とても素敵な言葉を自然に生み出してくれる。
「芽生の言う通りだ。家族がそろうと、そうなるのかもしれないな」
穏やかな夜がやってきた。
誰も声を荒げず急かさず、ただ優しい穏やかな笑顔が、テーブルのまわりを静かに満たしていく。
疲れた日の夜には、こういう小さな幸せが本当に愛おしい。
そのことが、また明日を生きる糧になる。
*****
歌舞伎から帰ってくると、家の中は真っ暗だった。
美智さんと彩芽はご実家に帰省しているし、憲吾は……まだ帰っていないのね。
じゃあ……久しぶりの、一人きりの夜ということなのね。
こんな時、ふと、あなたが亡くなった後の日々を思い出すわ。
あの頃は憲吾も宗吾も別々の場所で暮らしていて、今みたいに仲が良いわけではなかったわ。
だから家の中が広くて、寂しくて……静かすぎたの。あなたがいなくなった寂しさを、どうやって紛らわせばいいのか分からなかったわ。
心にぽっかり穴が開いたような日々だった。
時が流れ、宗吾が離婚することになって、芽生を預かるようになった。
まさかこの年齢になって、もう一度子育てをするとは思っていなかったけれど……あの子が、母親の母性溢れる愛情なしで育つのは、考えられなかった。
だから、全力で支えようと思った。
そうこうしているうちに、芽生は瑞樹くんと出会って──母親からもらうような、甘くて優しい愛情を、たくさんたくさん受け取って育ってくれた。
本当に、瑞樹くんはすごいわわ。
あの堅物の憲吾まで、自然と笑うようになって、ちゃんと父親の顔になってきたのよ。
瑞樹くんという存在は、この家の幸せそのものね。
「ただいま」
「憲吾、おかえりなさい。ずいぶん遅かったのね」
「宗吾と飲んできました」
「あら、珍しいこと」
「……いい時間でしたよ」
「ふふ、そうみたいね。顔に書いてあるわ」
「母さん、これ。一緒に食べましょう。瑞樹と芽生が作ってくれたんです」
二人でいただくレモンゼリーは、爽やかなやさしい味がした。
口の中で広がる、少しの酸味とかすかな甘み。
それが今日一日を静かにしめくくるのに、ぴったりよ。
ひとつの味に、いくつもの想いが詰まっている。
それが家族の記憶になる。
それは、ふたたび明日を照らす、やわらかな光になっていく。
ともだちにシェアしよう!

