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しあわせ図鑑 13
憲吾とレモンゼリーを食べながら、私は思わず「あらっ」と微笑んだ。
「どうしたんです?」
「憲吾、この味、なんだか懐かしいわね」
「懐かしい?」
「覚えていない? あなたが小さい頃、何日も熱を出して寝込んだことがあったのよ。その時、ひどく心配したお父さんが……台所になんてほとんど立ったこともないのに、一生懸命作ってくれたゼリーに似ているの。少し酸っぱくて、冷たくて……でも、甘くてやさしい味のレモンゼリー」
憲吾は一瞬きょとんとした顔をしたあと、悔しそうに口を結んだ。
「そんなことが? 覚えていないのが、残念です」
「まだ小さかったものね」
お父さんは不器用な人だった。息子への愛情表現も下手だった。でも家族を心から大切にしてくれたわ。
そんな、あなたたちがそれぞれの家庭を持ち、自分たちの家族を「宝物」だと感じている。これって素敵なことよね。
お父さん、見ていますか?
私たちの子育て、間違っていなかったみたいですよ。
「お父さんも、空の上から安心してるでしょうね」
「そうだといいのですが……。そういえば今日、宗吾がこんなことを言っていたんです。『今は自分の家に帰るのが楽しみだ』って」
「まぁ、それは素敵ね」
「その言葉を聞いて、私も同じ気持ちになりました。私も、ここに帰ってくるのが楽しみです」
憲吾は静かにスプーンを置いて、少し照れくさそうに笑った。
「私は今まで仕事優先で生きてきました。家庭のことを顧みず、美智にもたくさん我慢させてきました。でも、最近になってようやく気づいたんです。ここが、自分にとって本当に大切な場所だと」
目の奥がじんと熱くなる。
ああ、泣いてしまいそう。
「そう……でも、母さんはお邪魔じゃない? 」
「とんでもないです。この年になって、母さんが元気でいてくれることに、感謝しかありません。だから、どうか長生きしてください。まだまだ一緒にいたいです」
まあ、あの堅物だった憲吾から、こんなに優しい言葉を聞けるなんて。
「今日の歌舞伎の世界みたいね。まるで名台詞よ」
「……ははっ、実は瑞樹のおかげで、こんな言葉も言えるようになったんですよ」
瑞樹……そうね、やっぱりあの子の存在が、私の家族を少しずつ変えてくれたのよ。あの子の素直なやさしさが、私たちの心をやわらかくほどいてくれた。
誰かを信じること。
傷つくことを恐れずに、まっすぐ向き合うこと。
誰かを心から深く大切に思うこと。
全部、瑞樹が教えてくれたわ。
「……本当に、あの子に出会えてよかった。あの日、声をかけてよかった」
コーヒーをかけられて、途方に暮れていた瑞樹。
あの時ははただ、この子を助けたい、守りたい、その思いだけだった。
けれど今は、私たちが、あの子に支えられている。
夫を亡くし、この家で一人になるはずだった私が、こうして家族の輪の中にいる。これって、なんて幸せなことかしら。
「母さん……家族って、いいですね」
「ええ、私もそう思うわ。とっても、いいものね」
二人で静かに、ゼリーを口に運んだわ。
風鈴の音が、そっと涼を添える。
ひとりだったはずの家が、再び家族の場所になっていく。
それが、何より幸せなこと。
「母さん、ありがとうございます」
「突然どうしたの?」
「……根気よく待ってくれて。仕事ばかりで周囲に無関心だった私を……」
「あら、私はいつまでも待つつもりだったわ。だって私は、あなたのお母さんですもの」
「参りました。母は強いですね。机の上の知識では学べない、心の支えそのものです」
ふたりの間に、静かな時間が流れる。
言葉がなくても、心がそっと通い合っている。
そんなあたたかな沈黙。
この家には、今も確かに、ぬくもりが息づいている。
それを知る夜だったわ。
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