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第1話

 涙を流しながら、そんな夢を何度も見た。いいや、夢ではなく、目覚める前に見る俺の記憶の断片だ。もう十八年も前の記憶。  そんなものを今更思い出してしまうのは予期せぬ訃報を目の当たりにしてしまったからだ。  森光が死んだ。一週間前のことだ。まさか、朝のニュースで森光の名を目にするとは思わなかった。  仕事の帰りに通った暗い公園で通り魔に包丁で刺されたらしい。突然のことに気持ちが付いていかない。  森光とは居酒屋で会ってから今まで、たったの一度しか会っていない。十八年で一度だけ。 森光が俺のところに五歳の息子を連れて来たのだ。あいつと同じ笑顔を持った、太陽の花みたいな子供。確か名前は 「なんだっけかな……」  目覚めたばかりの喉で掠れた音を発し、布団から身体を起こそうか悩んだ。まだ、頭がぼーっとしている。休日は、いつもこんな風に目覚ましを掛けずに自然と昼過ぎに起きる。  横になっていても目に入ってくるのは木の天井と和風な照明だけ、身体を越しても殺風景な和の空間が見えるだけ。両親が残した家は独り身の俺には広すぎる。二階建て、八個あるうちの六部屋は死んでいる。  個人の警備会社に勤務する俺は休日以外、この家に長く居ることはあまりない。寝に帰って来るだけの方が多い気がする。俺は仕事に没頭していたいのだ。  ──ピンポーン──  平日の昼過ぎ、突然家の古いベルが鳴った。自分宛ての荷物など、もう何年も来ていない。近所付き合いもない。ベルが鳴るのは久しぶりだった。聞き間違いかと、誰かの間違いかと思ったが、ベルは何度も鳴った。俺が出るまで、何度も、何度も。 「はい、なん……」  引き戸を開け、尋ねてきた人間の顔を見て、俺は言葉を失ってしまった。 森光だ。森光が俺の目の前に立っている。初冬の光の中、あの時のままで、変わらず高校を卒業する時のままで。俺に会いに来た。死んでも俺に会いに来てくれた。 だが……、そんな筈はない。俺は、まだ夢を見ているのかもしれない。こんなこと有り得ない。 「森光……!」 「うわっ」  もうこれが本当に最後かも知れない。最後ならば嫌われたって良い。どうしても触れたい。そう思って、俺は森光に腕を伸ばし、強く抱き締めた。  嘘のようで、夢のようで、それでも、実体も体温もある。森光は俺を騙していただけなのだろうか。そう思いたくなる。 「ちょっと、痛ぇんだけど?」  苦笑を含んだ声が、離してくれと俺の背を軽く叩く。 「ああ、すまない」  分かってしまった。声音から、違うのだと分かってしまった。森光はこんな喋り方はしなかった。  身体を離し、目の前の青年の姿をまじまじと見る。良く見れば、雰囲気や顔は少し似ているが、やはり森光とは違った。  森光と俺は同じくらいの背丈だったが、青年は身長も俺より少し高い。少し長めの髪型も違ければ、髪色も違う。森光は黒、この青年は茶色だ。唯一、同じといえば彼の着ている制服だけ。 「お前、森光の息子だろう? 同じ高校に通ってるのか」  近くに住んでいて俺が十何年も気付かなかっただけなのか、どこか別の地域からこの地域の高校に通っているのか分からないが、森光の息子を見たのは、これで二回目だ。  森光の夢を見ていなければ、彼の息子だと直ぐには分からなかったかもしれない。あいつは俺に自分の息子の来訪を伝えたかったのだろうか? 「椿って名前、女かと思ったらオッサンかよ」   まるで俺の言葉が全く聞こえなかったかのように、青年が人の名を揶揄し鼻で笑う。 「オッサンって言うなよ」  確かに自分は高校生のこいつから比べれば歳を取っているかもしれないが、まだオッサンと言われるような歳ではないと思っていただけに少しショックだったというか、むっとしてしまった。 「オッサンを頼れって死んだ親父に言われたんだよ」  また人の話を聞いていない。 「分かったから、せめて椿さんと呼べ」 「嫌だよ。――親父とあんた仲が良かったんでしょ? 俺の面倒見てよ、オッサン」  なんて図々しい餓鬼なのか、と思う。森光、お前はどんな教育をしてたんだ? 「お前……名前は?」  溜息を吐きそうになるのを必死に堪え、呼ぶのに不自由が無いように俺は奴に名を尋ねた。 「言いたくない」  まったくと言っていいほど会話が成立しない。目の前に居る餓鬼は憎たらしいほどにへそ曲がりだということだけは分かった。身長だけが伸び、中身はあまり成長していないと見た。 「あんたは親父のこと、なんて呼んでた?」 「ん? 森光だが?」 「良いよ、それで。俺も森光だし」  乾いた冷たい空気の中で、森光の息子はニヤリと笑った。  ここは海の見える町でも山の上にある涼しい町でもない。それでいて、都会でも田舎でもない。電車に乗れば都会にでも田舎にでも小一時間で行ける。そんな町だ。  この青年が、そんなこの町に留まる理由とは何だろうか? もしかすると、俺と同じ理由なのだろうか? 親である森光を忘れられないから、ここに留まる。忘れられるはずないよな、自分の親なら尚更。  森光が頼れと言ったからといって、俺がこの餓鬼の面倒を見る必要はないし、別に追い払ったって良い。だが、俺も馬鹿だ。森光のことをずっと忘れられないでいる。  息子の顔を見ていると森光を思い出す。苦しくなる。それでも、本人じゃないとしても傍に居られればと思ってしまう。俺は馬鹿で最低な人間だ。今でも森光に好意を寄せ、息子を身代わりにしようとしている。 「椿」 「は?」 「俺も椿って呼んで良い?」 「駄目に決まってるだろう?」 「良いじゃん。親父、あんたのこと椿って呼んでたし」  不満げな表情がこちらを覗き込んで来る。父親に似て二重瞼のハッキリとした顔立ちをしている。 「それは、俺がお前の親父と同級生だったからであって……」 「じゃあ、オッサン?」 「はぁ……、椿さん、だ」  今度こそ、深い溜息を吐きながら「まあ、入れ」と、俺は森光の息子を家の中へと招き入れた。  呼び名が無いというのは非常に不便なものだ。もう俺も諦めている。森光と呼ぼうと思うが、心の中では二号と付けているだろう。早く奴の名前を思い出せ、俺の頭。 「あんた、ここに一人で住んでんの?」  玄関に入ると、そんな言葉が奴の口から転がり出た。 「そうだ、親が死んでからは一人で住んでる」 「仕事、何してんの?」 「警備」 「警備って何すんの?」  玄関に飾ってある鏡を見ながら奴が毛先を気にしている。髪型にこだわりがあるのだろうか。最近の高校生のことはよく分からない。 「ビルの警備をしたり、ホテルやイベント会場の警備とか」 「俺もやろうかな、楽そうな割に制服とか恰好良さそうだし」 「やめとけ、独りになるぞ」  少し冷たい口調になってしまった。だが、間違ったことは言っていない。俺が見本の様なものだ。高校を卒業し、普通のサラリーマンをしていたが、森光に再会してから職を変えた。俺は仕事に没頭し、気付けば完全に独りになっていた。 「あんた、真面目過ぎるって言われない?」 リビングに入るなり、奴は人の家のソファにドカッと腰を下ろした。 「不真面目過ぎるよりは良いだろう?」 「それって俺のこと?」 「その髪色、校則違反だろう。シャツも出ているし、だらしがない」 「良いんだよ、あと数か月で卒業だから。俺、成績はまあまあ良いし」 「卒業したら、どうするんだ?」 「適当に仕事探す」 「その後は?」 「知らねぇよ。あんたみたいに暮らしていくかもな」 「そうか」  何も言えない。他に言える言葉が見つからない。この人間は森光の息子であって、森光ではない。あらぬ感情を抱かないように距離を置かなければ……。そう思いながらも俺は、奴の面倒を見てやることにした。

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