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前編

 チャンピオンは特別な存在だ。他の出場選手とは違う。そう基樹は思っている。  一人用の控え室が与えられ、サポートチームやトレーナー、他スタッフ。たくさんの人に支えられながらも、ただ、孤独だ。  落ち着かない。グローブの封印も終わった。  ジムのトレーナーをはじめ、他のスタッフ全員、控え室を出てもらった。  皆が出払った控室は静かだ。  基樹と、スタッフTシャツを着た恋人の幸成だけが控え室にいる。 「俺、勝てるかな」  シンとした控え室に基樹の声が響く。 「勝てるよ。基樹は強いから」 「そんなことないよ。試合前は、いつも怖い」  座っていたパイプ椅子の背もたれに基樹がからだを預けると、ギシッと軋んだ音がする。 「だいたい、俺が世界チャンピオンだなんておかしな話だよ」 「どうして? あれだけ努力したんだ。当然の結果だよ」 「努力、か」 「僕は全部見てた。だから大丈夫」 「幸成に、キスしてほしい」 「誰かに見られたら、どうするの? あれだけ恥ずかしがってたのに」 「もうカミングアウトしたし、いいじゃん」  幸成は困った顔をしている。基樹がワガママを言ったときに見せる顔だ。 「じゃあ、防衛したらキス、負けたら足腰立たないくらいセックスってどう?」 「なんだよそれ、負けたくなるじゃん。防衛したらキスとセックスも」  試合前になると、練習以外に余計な体力を使いたくないという理由で禁欲的な生活をしている。 「勝手だなぁ。いつもいつも、セックスのタイミングとか、基樹の試合の都合に合わせてさあ。僕結構しんどいんだよ? 僕はいつでも、基樹の中に入りたいのに」 「ごめん」 「まぁ、そんなボクサーの基樹を好きになったんだしね。いいよ、平気」 「ありがとう」  控え室のモニターを見るとセミファイナルの入場がはじまった。  ペットボトルから突き出たストローを咥え、水をほんの少し口に含み飲む。 「そういえば、日本タイトルの初防衛戦の時もすっごい緊張してたよね。直前までトイレに篭って下痢してやんの」 「うるせえよ。あん時だけだし」 「あの時下痢止め買ってきてやった僕に、そんなこと言っていいの?」 「どうしても、緊張するんだよなぁ……挑戦者のときはそんなことないのに」  幸成がそばにいると思うだけで基樹の緊張は和らぐ。 「試合終わったら、また俺の髪切ってよ」  美容師をしている幸成は、わざわざ基樹にお願いされなくても切ってくれるのだが、今日は少し甘えたい。 「いいよ。でもなに言ってんの、その5分刈りに切る髪なんてないでしょうが」 「5分刈り……」 「基樹は頭の形がきれいだから、すごく似合ってるよかわいい。ずっとそれがいいな」 「そう、か? 美容師のお前に言われたら悪くないな」 「出会ったときは、伸ばし放題だったよね」 「あのときはバリカンが壊れてたからなぁ。てか、会っていきなりカットモデルになってくれとか言い出すからマジ、ビビった」 「最初は、顔がタイプだったからそう言ったんだけどね。実際触れてみたら、さっきも言ったけど、頭の形、髪質、全てパーフェクト。中学生か高校生かってくらい綺麗な頭皮もしてるし、全部僕のものにしたくなったんだ」 「そんなこと言うの幸成くらいだよ」 「僕以外には、触って欲しくない。試合の時は諦めてるけどさ……あれ、なんだっけ抱きつくやつ! 本当に腹立つよ」 「ああ、クリンチのことな。体力ヤバイ時は俺もするし、そのまま諦めてくれ」 「本当は嫌だってことは念頭に入れといてよ」 「極力控える」  沈黙。  沈黙は嫌いじゃない。  基樹はからだを冷やさないようにシャドーボクシングをはじめた。  左右にステップを踏み、そのまま拳を何もないところへ打ち込む。前に拳を出して引く。その度に空気が切れる音が響いた。 「志井、そろそろセミファイナル終わりそうだ……おお、さっきよりいい顔になったな。あとはいつも通りやれば防衛間違いなしだな」 「ああ、そうだな」 ガウンに袖を通す。汗でガウンが皮膚に貼りつき気持ちが悪い。 「行こう」  狭い廊下を歩いて進むと歓声が近付く。  スポットライトが熱く、リングの上の挑戦者を射ぬいている。  それを見つめて、松ヤニをシューズの底につけてリングへ上る。リングへ入った瞬間リングアナウンサーが「志井~もとーきー!」と名前をコールする。  ベルトの返還、写真撮影といった試合前の『儀式』を終えてしまえば、見つめるのは対戦する相手だけだ。  幸成も言っていたじゃないか、大丈夫だって。  そしてゴングが鳴った。相手に向かってステップをとりながら接近する。  この度にシューズのゴム底がギュッと鳴った。  目が覚めて飛び起きる。何度も見たことのある、会場の医務室だ。  最初のゴングのあと、一歩踏み込んでからの記憶がない。 「ああ、よかった。目が覚めたね」  そう話しかけるのはいつも試合後世話になってるボランティアドクターの山内先生だ。 「俺、試合は?」 「1ラウンド2分16秒。KOで防衛したよ。リングの上でインタビューも受けてた。それから引き上げて、ここに入る瞬間倒れたんだよ。今ジムの人たちが外の記者たちに説明してるみたい」 「幸成も?」 「……疲れが溜まっていたんだね。大変だったから」 「大変? 大変なことなんて少しもない、減量だって俺はナチュラルウエイトに近いから辛くもないし……」 「志井選手、打たれてないからダメージはないだろうけど、一度病院に行った方がいい」 「なんで? 俺は普通だよ」  山内先生は少し哀しそうな顔をしていた。

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